議論の過程において、文言の是非を問うことに意味はあるか

論理の隙を突いて相手の主張をやっつける、という意図がある論戦ならばともかく、意見を出し合ってその妥当性を議論する、まあいわゆるディスカッションだったりブレインストーミングだったりするときに、まあ、論理的な誤謬があるとかそういう指摘はともかくとして、例えば、
「(法律用語だったら)そういう意味に限定できないからおかしい」
とかいう突っ込みを入れる意味があるのかどうかというと、ないよねえ。
そんな事言ったら多義的な意味を持つ単語は意味が確定できる文脈の中でしか絶対に使えないし、「それは誤読です」という弁明も一切使えない。誤読が生じる文章を書いた時点でその人の主張は間違っている。そんなバカな。
議論の結果を例えば法律の原案にしていくとか、そういう作業の中で、文言そのものの妥当性を検証することは大事な作業だと思う。作業なんだよ、文言修正ってのは。もうコンセンサスの取れた概念について、誤解や拡大解釈が生じないように文章化していくこと自体は議論の本質とはあまり関係ない。
もちろん、議論の中で、人によって違う意味で使われる言葉が錯綜していると困ったことになるから、定義や範囲を確認していく必要はあると思う。それが必ずしも法律用語と一致している必要はない。定義さえ明確であれば、報道用語であれ、業界用語であれ、なんでもかまわない。結果として議論している内容がそれぞれ違う受け取り方をしなければよい。「XX用語でなくてはならない」というのはXXに適用する際に考えればよいことだ。
誤解を招くような言葉の使い方は、もちろん、慎むべきではある。でも、ぱっと見でおかしい話をしていても、その議論がローカルで、参加者が大体認識があっていれば問題ないわけで。その認識をリセットしてまで外部の特定の言葉の使い方に合わせていくのは面倒だから、議論が収束して外向けにアピールする際に変換していけばよい。
でも、ウェブでの議論は最初から外に見えるから、揚げ足を取られたり、誤解してやたらと反発される前に妥当な言葉に代えておくほうが無難なんだろうけどね。
善意で解釈すればわかるよね、という文章に対して、悪意で解釈する反対者の存在を仮定して隙をなくすべきか、常識で考えればわかる話をわざと曲解する悪意の持ち主は常識はずれとして排除される社会の機能を期待するかはケースバイケースです。後者のほうがバカがバカだとはっきりするので良いかもしれないけど、非専門家とただのバカの区別がつかないことはあるしね。