杓子定規なマナーって思考停止の言い訳だよね

主に不愉快なときにマナーを持ち出すのは、先人が調整した結果を享受しているだけであって、新しい調整をする意思がないことの表明ではあります。もちろん、マナーによって不愉快がお互いの許容できる枠内に留まっているということではありますが、杓子定規に適用するというのは、その場その場での事情を考慮するのがめんどくさいということに他なりません。人が大勢いればいるほど杓子定規に寄りがちで、そのこと自体は仕方がないとは思うのですが。
一期一会という言葉はそういった杓子定規的なマナーは場合によっては人のおもてなしにならないよ、ということも言っているかも知れません。

騒音レベル的には普通の話し声で話してればさほど迷惑じゃないと思うんだがなー。

電車社会と携帯電話と同調圧力としてのマナー - 狐の王国

その通りだと思う。何度も言われていることだけれども、電話は相手が見えないと独り言の変な人みたいでキモイ、という点をクリアしなきゃならんとは思いますが。そのへん、どう気を使うかかもね。

基本的には「周りに迷惑だから、電車内で携帯電話で話すな!」って話じゃないのかね。であれば、「迷惑にならないのならば、携帯電話で話しても良し」にならないとおかしくないか?

うるさくなければ話していい - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

だから、迷惑にならないということのレベル感を決めていかなければならないんですよね。そして、対大勢としては、調整可能なギリギリが「通話はご遠慮」にすでに設定されてしまっています。ここを基本線として、空気を読みながら(不愉快になる人がいたらやめることも視野に入れて)通話すればよいはず。もちろん、それで急に怒り出す人がいるリスクは取るとして。
マナーってのは誰かがちゃんと考えて、何がしかの調整をした結果としては尊重されるべきだけれども、それに胡坐をかいて「マナーだから!!」って一方的に迫るのもいただけないとは思う。コミュニケーションツールとしてはかなり拘束力の強いものだとは思います。だからこそ、マナーを持ち出すほうとしても、その適用方法に気を使うのがそもそもマナーなのではないでしょうか。