進学校こそ服装に対する自由度が大きい

入試で服装を(裏の)判断基準にするのはどうか、という話があるのだけど、服装が自己主張なのか反抗の象徴なのかはたまたそれ以外なのかは境遇や立場によって異なるんだよね。というところでこれ。

ところで頭髪・服装自由化している高校の存在はご存知でしょうか? ぼくの出身校は進学校でしたが、腰まで髪伸ばしている茶髪のアマチュアギタリストとかが普通にいました。ぼくも一時期はかなり髪長かったですね。少なくとも「それなりの身なりと所作」はすべからく要求されるものではないんです。だいたい、服装の自由化が少しずつだけれど着実に進められているくらいなんですから。

裏基準で選考しなければならなかったわけ - Notquicka9 納得いかない@ハテナ

僕は都立高校に通っていたけど、印象として、進学校になればなるほど制服などの制限がなかったように思う。うちの高校なんて実質校則といえるのは「バイク通学禁止」くらいだったからなあ。でもあんまりKYな格好していると、注意する先輩なんてのはいた。
進学校なんてのはある程度将来に対する打算がある人が集まっているから反抗の象徴としての奇抜な服装をする必要はない。教師側も著しく学業に支障があるような格好(そんなのあるのか知らんが)以外は許容してしまう。
教育ってのはある意味社会に対するある程度の画一化を教え込むところではある。個性を尊重する、というのと常識がないことを非難する、というのは別に相反しない。常識を踏まえているか踏まえていないかというのが一つの基準であって、進学校の生徒はまずその常識の部分はクリアしていると見做されているから服装なんかは多少逸脱していても個性の主張として認められるのだろう。逆に、荒れた学校の生徒はまずその画一化をいったんは必要なものと受け入れることを学ばなければならないとされているのだろう。その状態で、服装が決められた範囲から逸脱するのは、反抗だ。
こういうのを胸糞悪いと思う人はいるとだろうし、画一化の押し付けが根本的に正しいこととは思わないけど、これもまあコストのかけ方だよね。
人を評価する、というのは難しくて、その評価の仕方というのは必ずしも相手のためになるようなものになるわけではない。公正に評価されるべき、という話自体幻想に近くて、評価ってのはする側の利害がまず最優先されるもの。もちろん、評価のルールが社会の常識を逸脱しているときは評価する側が非難を受けることもある(これも社会の常識というある種の都合による評価ではある)。評価基準が許容されるかどうかっていうのは、だから評価される側の立場から見てもあまり意味がなくて、評価する側の評価基準が、原則ではなく、その置かれた状況や立場を社会的な常識に照らして許容されえるか、というところに基準があるわけ。もちろん、それは評価される側から見ると理不尽なことはよくある。でもあそこはあれだからしょうがないよね、的な社会からの評価を受けちゃうわけだよね。そしてそれは往々に原則というか建前と抵触する。
都合のいいときだけ建前を前面に出されても当事者は結構辛かったりするんだよね。原則と個別の状況が今まではわりと分散化されていたんだけど、情報が集約されていくことにより個別の状況が伝わりやすくなって、かえってその原則から乖離している部分が問題視されやすくなっている。なぜそういう状況になっちゃっているかという背景は伝わりづらかったりしてね。もちろん、逆に今まで原則には従っているっぽいと思われていた部分が詳細の情報が伝わることで実は逸脱しているのがわかったりして。つまり、外野が口を挟みやすくなっているんだけど。