労働の質と待遇、人生

僕がIT業界に足を踏み入れたときは、現場によっては早朝出社終電退社、土日出勤当たり前の月残業400時間で残業代がっぽがっぽなところも珍しくはなかった。
ここ最近、周囲を見渡してだいぶ改善されてきたな、というのはまあ不況で無理にするだけの仕事が足りない(リソースを適正に配分すれば回るといういい状態な)だけかも知れないけれども、定時くらいに帰る人が増えてきたってこと。そうなってみるとそれが当たり前な生活に思えてくる。実際そうなんだけど。残業代が稼げない若い子はちょっと大変なところもあるかもしれないし、切羽詰らないと身に付かないものを若いうちに身に付けられないのは後で響いてくるかも知れない。でも、労働のあるべき姿ではある。
いやそうなのかな、とも思ったりする。労働っていうのは一様じゃないし、労働基準法の基準だって個人差も含めた何もかもを解消してくれるものではない。これ以上働いてはいけません、というのは人によっては機会損失の強制だったりもする。働いて得られるもの、満足感、仕事の実力、そしてお給料。失うもの、時間、体力、ある種の健康。そういったもののバランスまでを保証してくれるわけではない。でも、ベースラインとしての「労働とはこうあるべき」というのはあってよいし、そこから先のバランスをどう取るかが個人の課題。そこ以降は強制されないという形を作っておくことが何よりも大事なのだろう。会社等の雇用側は、強制できない状態でリソース不足が生じないような対策を普段から取っておくことが必要なわけだ。
仕事が人生である人と、単に生活の糧を得る手段である人とでのその質の違いというのも、難しい問題ではある。成果を出しての後者の人が評価されにくかったりするのはある意味期待値で判断されているからかもしれない。
ここ最近で会社の中で変わったのは、以前は「残業300時間?頑張っているねえ」という感じだったのが「残業300時間?マネジメントや人の配置に問題があるんじゃないか?」になったということ。これはリスクを減らすための方策でもあるけれども、ようはがむしゃらに働けばいいじゃんという働かせ方は法的にも、現場の結果的にもリスクがあるよ、ということがわかってきたから変わったのだろう。あともう一つ変わったのはオフィスアプリケーションの管理をきちんとするようになったことかな。

NHKにしてはまともなレポートだったんだが(科学文化部デスクが良かった)
 日大板橋病院総合周産期母子医療センター勤務、卒後5年の青木医師が週4日当直(うち一つは外部医院)
という時点で、
 労基法違反
を誰も突っ込まない不思議。

NHKニュースウオッチ9で日大板橋病院総合周産期母子医療センター卒後5年目青木医師に密着 「苛酷な勤務」って誰が見ても労基法違反なのにNHKがスルーしている件: 天漢日乗

僕が某ラジオ局でバイトしていたとき、AD(そのラジオ局では正社員が下積みとしてADをやっている)の若い社員は過酷な労働時間だったけど、仕事の成果と給料には満足していた。納得づくで文句を言いつつも楽しんでやっていたんだよね、多分。マスコミなんて拘束時間は長いだろうし、労働時間だけ見ると過酷っていってもまあ普通だよね〜みたいな感覚はあったのかもしれない。自分にとって当たり前の状態だと、他人にとっても当たり前だろうという誤認はよくある。過酷ってのはそういう意味では煽り文句なのかもしれない。
労働時間というのは実は簡単には比較できない。僕らだって障害対応に追われて三徹の労働時間と、本番リリースの立会いで労働時間は三徹と同じに計上されるけど、実際は夜は現場近くのホテルでゆったりの場合の労働時間と、結果としての見た目は一緒だけど全然質が違うということもある。300時間?へー、という問題ではないのである。
修羅場をくぐってきた人たちが集まると、「最近早く帰れるのはいいんだけど、次のでかい案件が来たときに、何か起きたら若い子とか耐えられないかもね。どうしよう」みたいな話をすることがある。使命感で仕事をすることに慣れている僕達は、トラブルが起きたら何が何でも優先して片付ける。それがプライドの一部でもある。でも若い子で、そういう意識がない子なんかはすごく他人事の目をしていることが多い。あえて若い子といったのはこの業界若くない人は使命感がなくても障害に対しては条件反射で無理をするものだからw
僕はITの仕事をするのはすごく好きだし、でも趣味の音楽も大事にしたい。そういう点では今すごくバランスのとれた会社にいるとは思っている。けれども、人生のこの先を考えたときに、自分にとって仕事とは何かをもう少し考えたいとも思う。9時5時の中で身に付けられないことも考えていかなければならない。同じことを繰り返していれば60歳が来るような仕事をやっているわけではないからね。