日本的なる物と全体最適

全体最適を考えるときには何が「全体」なのかをよく考える必要があるよね、という話。人類なのかアーリア人なのか。人類なのか地球なのか。日本人なのか日本国籍所有者なのか。「全体」を大きく捉えられる可能性の広がりが文明の広がりなのかも。

だって「全体最適の視点で考える」のって決して「自然」ではないよね。一番自然なのは明らかに「オレ様最適」でしょ。上品に言えば「自分最適」というか。

2009-04-16

でまあ、不自然な考え方の教育、みたいな話があるんだけど、実際にはそれは「結果としてオレが幸せになるためのコミュニティー最適」であって、あんまり「全体」ではないと思うんだよね。
ブコメにあった、全体最適は日本的、みたいなのを見て思ったんだけど、日本的なる協調性とか以心伝心とかそういうのってさ、オレオレ俺だけどって生きるのが面倒だからルールにしちゃおうぜ的最適化であって、決して人類をよりよいところに導くための全体最適じゃないよね。目の前の体裁を取り繕って将来起きるであろう悪いことに目を瞑るのも日本的なる物です。それを個人じゃなくコミュニティーがやってしまうところが特に。
強いものが生き残るってのはオレ様最適というよりは自然の摂理で、それにしたがっていたほうが全体的には最適化されるんじゃないのかなと思ったり。
割り箸を使わないことで地球環境が、と思ったら間伐財の用途が減って森が荒れ放題で生態系が乱れた、みたいなのが難しい。
全体最適で考える、というのは不自然というのはそうだけど、そもそも全体最適で考えているかどうか怪しいことのほうが多そう。まあ、常に全体最適で考えなきゃならないなんてことはないからね。標榜しなければよいのだけど。