マスコミはすでに観察される側なのにね

まだ自分たちが報道をしている唯一の存在とでも思っているのか。マスコミの常識は所詮マスコミ同士でしか共有されないので、こういう恥ずかしい姿をさらしても平気なのかもしれない。

この日のいろんなマスコミは、ソフマップ本館前の献花の中から、メッセージカード付きの花を探して、まわりの花を手でおさえて撮影したり、下のほうから別のカード付きの花を掘り出したりしてた

秋葉原無差別殺傷事件から1年 献花をあさるマスコミ : アキバBlog

ご立派な仕事ですこと。

もっとも、こういう風に作られてきた番組を見ていろいろと考えさせられてきた僕たち視聴者もえらそうなことは言えないのかもしれないけれども。また、汚い仕事の結果として生まれる美しい成果というのはあるのかもしれない。だから、責めてばかりいても仕方が無いとは思う。

とはいえ、もはやマスコミは一方的に取材をする存在ではなくなっている。放送メディアを握っているという特権は情報発信という点ではもはやたいした特権ではなくなっている。かつてマスコミに取材される側が一方的にそうであったとおり、マスコミの取材陣も、見られる側に立ってしまっている。もしかしたらリンク先では恣意的な演出が行われているかもしれない。もちろん、マスコミがやってきたことと大して変わらない。

取材という行為にある程度の品性を求められるのは仕事がやりにくくなったと思われるかもしれないけど、本来は取材対象を踏みにじって成果だけ吸い上げていくことはよいことではないはずだ。報道のためには許される、というある種のジャーナリズム(なのか?)が存在するのか。もしそうだとしても、それは過去のものであるのだ。嘘はばれないようにしなければならない。ばれる嘘しかつけなくなったのであれば、はじめから嘘をつかないことだ。