ホメオパシーが流行るのは宗教が機能していないからかもしれない

死生観というか。いかにして生きるかには必ずいかにして死ぬかがついて回るはずなんだけど、死は忌むべきもの、避けるべきもの、人は生きて社会に貢献するべき、という世の中では長生きが正義であって。その反面、高齢化社会が云々。もちろん、本人の選択と、社会の体制というのがバランスであって、社会がある年齢で死ぬことを強要するようなものではなくなっているけれどもね。
ホメオパシーを信じて死ぬ、というのも個人の自由って言えば自由なんだけど、人事を尽くして天命を待つって言うよりは藁にもすがっているだけであって、藁なんてすがっても無駄なのわかっているじゃない。生にとって無駄ってわかっているものにすがって死ぬことはしたくない。信じるってだけなら宗教だって同じだけど、死に向き合って如何にして死ぬべきかを考えて、ということはホメオパシーにはないよね。信じるのは治るということだけ。
延命治療を拒否したり対症療法だけで済ませたりするのは人生観の範囲だと思うし、そのことについて他者がとやかく言うことでもないけれども、生きたいと思う人に無効な選択肢をさも有効かのように提示することはやはりよくないことだ。治したいという意思を完全に裏切っている。
それでも、本人の意思なら、というべきかどうか。少なくとも、それ相応の年齢になってなお無知であることを罪として認めるのであれば、それは本人の問題だろう。もっとも、社会が無知であることによる不幸を最大限排除しようと機能すべきなのであれば、それを認めるべきではない。
藁にでもすがるのは生への執着の姿として、美しくもあり醜くもあり。でも、あっちに綱があるのに藁にすがろうとする人を見捨ててさることはしたくはないよね。


全然宗教の話にならないね。来世とか、あの世とか、荒唐無稽だよねって思ってしまえば、なんとしてでも生きる手段を追い求めることが現代の宗教なのかもしれない。有機何とかとかエコなんとかとか、まあ大概が宗教みたいなもので、その中にホメオパシーがあったり、マクロビがあったり。でもなんかしらんけど、そこには目的しかないんだよなあ。ないはずなのに、なぜか信念とかそういうものがセットになってしまったりする。「西洋医学は信じません(キリッ」とか。健康に生きるために実践していること自体がなぜか人生観を支配してしまうようなそんな違和感。


全部裏返せば、死への恐怖からの逃避なのかもしれない。理性で死と向き合ったとき、どうしても直面してしまう、決定的な瞬間を避けるために、壮大な伏線として、自分はそれを信じて生きたんだからそれでよいんだ、という人生観を用意しておくのかもしれない。ともすれば、代替医療は西洋医学によって死に直面する理性が零れ落ちたときの受け皿として機能しているのかも知れず。


単に無知が作用しているだけならば、しかるべき公的手段を講じることで防げる被害はたくさんあるだろう。そうであって欲しいと思う。