語感とバカな大衆

大衆はバカだ、ということは前提にしたくありませんが、僕も含めて、大衆と言うのはそれでも踊っちゃうものですからね。

・よく考えずに言葉尻を捉えて感覚で議論することの危うさ・愚かさ
・個人それぞれがきちんと思考することの大切さ
・そして、その思考をきちんと言論に表すことの重要さ

よーく考えようー、思考は大事だよー。(「暴力装置」という言葉) - Togetter

とあるけど、この「きちんと」ってのがものすごい難しいことだと思うんだよね。めんどくさいし。めんどくさがる人にめんどくさがっちゃダメだよってのは通用しない。だってめんどくさいことには変わりないしね。

ここで上げられている天皇機関説の例なんてのは、言葉尻ということがいかに政治的な問題であるかを端的に示している。

承前)で、この機関説排斥運動を陰でほくそ笑んで見守っていたのが鳩山一郎だってのは、歴史の皮肉としか思えない。私は常に、辞書の「浅知恵」の項には鳩山一郎の写真を載せるべきだと思ってるんだが、この時も鳩山の浅知恵が冴え渡る。鳩山は愚かにも機関説排斥運動を倒閣の道具にしたのだ(続く)

http://togetter.com/li/71008

これこれ。別に鳩山一郎に含むところはない。結局のところ、政治ってこれなんだよね。こうなっちゃったら、用語として正しいかどうかなんてほとんど問われなくなっちゃう。つまり、語としての正当性をロジカルに語ってもすでに反論足り得ない。論理じゃなくなっちゃってるからね。むしろ尻馬にのって問題を「言葉の使い方、礼儀」に還元してしまうことで政治力をそぐほうがよいんじゃないかと思ったりもする。
仮にあの発言を擁護するとしたら、むしろ発言そのものの(場や立場としての)不適切性について大いに突っ込むべきなんだよ。それは政治家としての資質問題であるからね。