侮蔑表現と言葉狩り

乙武氏の著書を読んでから語るべきなんだろうけど、最近思うことを。

たしかに、ある言葉を同じような意味あいの抽象性の高いものに置き換えることによって本質を見て見ぬふりする風潮がこの世の中にはびこっています。
ただし、「カタワ」と「障害者」という言葉の間には、現代においては天と地ほども違う意味があり、安易に抽象性の高い言葉に置き換えたのではないことを忘れてはならないでしょう。
まず、ある時代において「カタワ」より抽象性が高い「不具」という言葉がありましたが、これは差別的な意味合いが強まり、中立的に体や精神が不自由である状態を表すものでなくなりました。だから、「カタワ」や「不具」をやめて「障害者」と呼ぶようにした歴史的背景があります。ただ単に言われる側のつらさがあっただけでなく、言う側にも痛みが伴い、心身の障害の状態を表す言葉としては余計なものが付きまとい過ぎた結果、「障害者」に行き着いたわけです。
本質を曖昧にしようとする意図ではなく、(差別や侮蔑までが本質の一部であるというのでなければ)本質を単純化した結果が「障害者」なのです。それとも「カタワ」と言うほうが本質を的確に表しているとでも言うのでしょうか。

http://ameblo.jp/moonsun3/entry-10936389385.html

長々と引用してしまいましたが、カタワという言葉自体も生来は本来あるべき(という事自体がアレと言われそうですが)がないという意味の言葉だし、その他のいわゆる障害を表す用語も元々は状態を表す言葉だよなあと思うのですね。目が不自由だったり、耳が不自由だったりすることを表す言葉に比べてカタワは総称であり、その分抽象的であるが故に、侮蔑に使いやすく、その意思が込められてきた歴史があり、今に至ると。この辺は全然専門ではないので、もうちょっと違う話なのかもしれませんが、印象として。その点、穢多非人など完全に尊厳を無視した侮蔑語とは成り立ちは違うのかな。

人の口から差別がなくならない以上、侮蔑表現を取り上げることは別の侮蔑表現を生むだけであり、カタワを言葉狩りしたことで障害者という言葉が次の侮蔑語になりそうです。それを敏感に感じ取ったのか、「害」がイカンという話にもなりました。害を碍に変えたところで侮蔑を込められたら意味が無い。

僕は他人をカタワと呼ぶことも、他人が自分をカタワと呼ぶこともちょっと抵抗がありますね。すでに抽象的な状態をあらわす語の域にはいない侮蔑語として成立しているから。ということは、それを差別心の発露のバロメーターとして活用可能な域にあるとも言えます。そこで障害者の人が「俺はカタワだ」とか言い出したら正直困っちゃう。理想郷でもない限り、人の心底を計るための仕組み…といってもいいのかな?は必要なのかなと思ったりしますね。

そのあたりをはっきりさせつつ、新しい言葉に侮蔑的な意味を持たせないためにも、そういう言葉を狩ってはならないのかな、とも思ったりします。例えば小説で、登場人物が「カタワ」と発するとき、そこに何が込められるのか。仮にそれが「障害者」という言葉であれば、その言葉に侮蔑表現が込められるのが許容できるのか、とか。もっとも、昔の小説など、ナチュラルに差別(当時としては当たり前の考え方として)表現としてそういう言葉を使うことはあるし、現代においてそれではいかんとは思うものの。