人間の分類はどこまで許されるのか

学術的って言葉が安すぎるんだけど…

岡野氏は「血液型人間学は占いまがいのものではなく、学術的なものだ」と話した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110808/trl11080822490008-n1.htm

古くから、骨相学、形態学、血液型、と人間を外形的な要素から分類する試みは繰り返されてきたし、現代にいたってそのことの無意味さかげんと本質的な危険性への理解から、大きな声をあげられることもなくなってきていますが、唯一の例外として日本での血液型性格診断だけが社会的に有効性を保っているという奇妙な現状はあります。

もちろん、これらの分類の中には「人種」も含まれる、と書いたらそれがはらんでいる危険性というものがわかると思います。血液型によって差があって、その差によって何がしかの判断基準にしようとしている、という時点でそれが人種差別と同じ事だということにはなぜか気付きづらい。それは、分類しようとしている内容が「能力」ではなく「性格」という曖昧なものであり、また、たった4つにしかわけないことによって、かつ日本の特殊な血液型分布も相まって、それほど大きな差別にならないからですね。

学術的な研究として分類するのはいいかもしれないけど、そこに相関関係が見られてしまうと差別につながる、となると普通は腰が引けるものですが…。もっとも、相関関係がみられることはあまりありません。スポーツ絡みではそれなりにありますが、それも絶対的な能力というよりは有利になりやすいというレベルであることが多いように思います。

今かろうじて血液型性格診断(あえて人間学とは言わない)が許されているのは、能力に踏み込んでいないからだと思いますね。つまり、性格を能力の一種と捉えて就職の際の採用基準に使った場合は、でたらめな分類による差別が発生したと認定してもいいわけです。
もっとも、昔から少なからずそういうことは行われてきていて、「血液型のバランスを取ろう」とか「出身地のバランスを取ろう」みたいな基準での採用があるってことは否定できません。

学術的であるかどうかにかかわらず、そこに分類があれば基準が生まれるわけですな。そして、血液型はポピュラーな分類で、それに性格が関係あるとなるとどうしても基準にしたくなる。ほんとに血液型のバランスを取る必要があるとしたら、それは従業員同士で輸血をしあうのが日常茶飯事の過酷な環境(その時点で何か人権侵害の臭いがするけど)くらいのものです。

だから、性格占い程度のまー細かいことグチグチいっても仕方ねーじゃん的な話であればまだ許容されるけど、学術的な血液型人間学なんて言っちゃったら非常に危ない。差別主義者のレッテルを貼られても仕方がないくらいの問題じゃないかと思ってしまうわけです。

「仮に差があったとしてもそういうベースを基準に人を評価しちゃいけないよね」というように世の中が差別をしないような努力をしているのに、それを踏みにじるようなことをしてしまうのはなんでだろうと思うところもあります。日本人にとって血液型性格診断は奇妙な宗教みたいなものですね。