リスクと差別と科学リテラシー

小中学生のころ、家には「暮らしの手帖」だっけか?企業広告のない(もっとも当時はそのことに気づいてないけど)雑誌があった。そこでは家電や食べ物などについての容赦ない性能検証や比較が行われていた。僕のニセ科学に対する態度のルーツはそこにある、と言ったら言い過ぎである。
それはさておき、世の中の広告に懐疑的であり、実際に試してみて結論を出す、というメディアの存在は貴重だ。もっとも、いつぞやの週刊金曜日のように結論ありきの買ってはいけないみたいなものもあって広告がなければいいってものでもないわけだが。実証的な態度こそが肝要である。残念ながら、ポスト既存メディアと期待されたインターネットがボランティアと回線料で維持されていた時代は去り、只という名目の広告支配世界に成り下がった。個人の良心的なサイトは同じくらいの善意で運営される結果論的トンデモサイトと区別することは難しい。特に、本当にそれを必要とする人(本人はそうは思っていないだろうが)にとって。


原発の件はインターネットに広まる個々人の意見が一般的にものの役には立たないことをはっきりと示している。客観的に評価されないリスクが自称「俺は頭がいい」人たちによって差別に形を変えていく。かの人たちはそれでも真面目に問題について憂いていて、ただ、そこに存在する差別が二の次になっているだけなのではあると思う。ハンセン病が感染力の高い病気かどうかわからないのであれば隔離されるのは仕方がない、というくらいのロジックでしかないとしても。


さて、そんな人たちに科学リテラシー自体は無いわけではないのだと思う。しかし、何故か非合理的な結論を出しがちなのはなぜだろう。一つには、認めなく無いだろうが恐怖によるパニックがあるだろう。予防接種にしても飛行機にしても、確率の問題に還元すればほかの方法よりも安全性が高いのに。まあ、宝くじを買う心理と大差はない。もしかしたら、当たるかもしれない。宝くじが当たるかもしれない前提で人生のプランを組んだらバカだと言われるだろうが、何故かネガティブな事項について「万が一(どころが100万が一)」を考えることはいいことだと見なされる。実際には不運以外のなにものでもない。不運を不運として自分も周りも認めることが出来れば幸せなのだが、人はついつい物事に原因を求めるものだ。それならば原因行動をしないという選択がベターなものとなりうる。これが非合理な結論にいたる第二の道である。


合理的な思考は時として規範を、倫理を、法律を、世間を超越せざるを得ないことがある。人はそこに達したとき、合理的にいきることに限界を感じ、非合理の道を選ぶのかもしれない。それが今の人類の限界であるだろうし、人が人たる所以だとは思う。後で後悔して泣くことになっても。


頭の善し悪しとか、知識の量とかは本質的な問題ではない。真に科学リテラシーを生かすためには確率に身をゆだねる必要があり、そのことに対する抵抗が恐怖になって現れるのではないか。


でも大切なのは恐怖から目をそらすのではなく向き合うことだ。現実をいかに避けるかではなくいかに受け入れるのか。そう考えないと些細なことによる差別はやむことがない。