橋下不支持が緩慢な自殺なら橋下支持は盛大なバクチ

橋下市長がやろうとしていることを全面的に支持するわけではないけれども、それなりにうなずける部分は多々ある。しかしながら、最近の言動を見ているとどうしても不安にならざるを得ない発言が多いと思う。

確かに彼の言うとおり、じっくり時間をかけて改革を進めようとしても気がついたら任期が過ぎていることだろう。だから、性急にやるんだ、と。まあ、そこまではよいとしよう。
でも彼の「大学教授とやらは何も知らない」「反論するなら対案を出せ」という批判はよくわからない。目障りだから叩き潰したいから討論したい、という話か。

反論するなら対案を、というのはよくある遁辞で、確かに現実的な問題に対して議論を重ねた結果として結論づけたことに対して蒸し返すような茶々入れをされたときにはそう言ってもいいだろうと思う。しかし、今の彼の政策は、「ぼくのかんがえたりそうのおおさかと」なのか、実効力のある革新的な改革案なのか、さっぱりわからない状態。もちろん、考えるところの骨子は目に見えているし、ひとつの形としてありかな、と思うんだけど、やってみないとわからない。やってみないとわからないからやるんだ、というのはそのとおりだけど、環境アセスメントよろしく外堀は埋めておかないと思わぬところから全面的に瓦解する可能性がある。

なので、今市長がやるべきなのは、総論はともかく各論に対する指摘に対して「対案出せ」ではなく、きっちりと論破(喧嘩という意味ではなく)していくことだろう。それが決して多数決ではない、民主主義の本質を守ることだと思う。

それを様々な中傷に近い肩書きラベルを貼り付けたり、非難されるべきところではない部分を非難して相手の相対価値を下げて叩き潰そうとするようなつぶやきで代替できるわけがない。

「俺がやらないと何も変わらない」というのは純然たる事実だろう。そして、その事実は民主主義の悪弊であり、ひとつの安全弁でもある。だから、橋下政治は民主主義にとっての劇薬である。

いままさに行われていることは、「歴史が評価する」類のことだ。それは、彼が独裁に近い形で市政を進める、ということに対して、大阪市民が(あるいは他の日本国民が)どういう態度を示したかも含めて評価されることだ。ナチスだって国民の支持は高かった。

僕は、彼が正しかったとしても、たとえそれが結果として衆愚であったとしても、民主主義の手続きに殉じたいと思う。