未来を紡ぐメディアで過去を問題にすること

twitter発言捏造事件が話題になっている。思えばWebの議論ではよく過去の発言がほじくり返されて面倒なことになる。訂正はできても削除はできない仕組みにならないものかと思うことはあるけどそれはそれでいくつもの問題を抱えることになる。
twitterの構造が抱える「削除か捏造かわからない」問題は本質的にはtwitterの議論ツールとしての脆弱性の話ではない。人は悪魔の証明を求めることが好きだということを露わにしたのだ。
コミュニケーションの難しさの原因の一つに、思ってないこと、考えてもいないことがなぜか相手に伝わってしまうという事象がある。まあこのことは作家が国語の教科書や入試問題にいちゃもんつけるような話ではある。実際に書かれているものですらそうなんであるからして捏造なんてされた日にゃあ「ヤッパリね」とレッテル貼られて反論の余地も残らない。

実に後ろ向きの話だと思う。


そもそもある断面で人を判断することができるなんてことはない。人に歴史あり、しかし人格は過去のものではなく今のものである。そのことを認めないのであれば人が成長することに意味がない。

まあいい加減なだけなのと成長していることの区別も付きにくいけど。

とはいえ、「今」を判断することも難しい。無条件に人を信じるのも危険な世の中ではある。でもないものはなかったのである。たとえ削除したのが事実であっても、それは隠蔽ではなく、未来にフォーカスするために切り捨てるべき過去だったのだ。そう捉えることで未来を向いていけたらと思う。