共感装置としての物語へのクレーム

なぜ、感動実話が実は作り話だったときに怒っちゃう人がいるのかと。
感動するってのは、そのエピソードから自分の価値観のある部分が刺激され、感情に変換されて表出するものだとすると、価値観を侮辱されたように感じるからなのかもしれない。
感情を表出するのは人間の精神の安全回路の一つでもあるけれども、コミュニケーションの重要な手段の一つでもある。つまり、自分はこういう価値観を持っていますよ、というのを直接的ではなく、でもある意味かなり直接的に表明する手段の一つだ。
となれば、「Xに感動した自分」という価値観の表明において、Xの価値がそもそも想定していたものと違ったことで、価値観とエピソードのギャップが出来る。そのことにより、自分の表明したことが実際に思っていることと違う、という状態が生まれてしまうのだろうなあ。

もっとも、実際には「実話」というところには価値観のウエイトはないはずなんだけど、ポーズ(世間体)の部分において、実話であることがある種の掛け算的なスパイスと感じている人にとっては、最大限で表明した価値観と、その実際とのギャップはあまりにも大きく、実話でないことにクレームを付けることによってしかそのリカバリーはできないのかもしれない。