文化を守るのは税金か

唐突であるが、このtweetに対しては賛成である。字面だけ。

あずまんの言葉はどうもその意図ではなく字面には同意したくなって困る。もちろん、主旨として全く逆の話になるわけだけど…

そもそも、税金で文化を守るというのがおかしいんだよね。といっても、文化に税金を使うなということではない。でも常に一定の予算が期待されるのは間違っている。あくまで文化に税金が費やされるのは社会の要請であるし、それによって興るものもあれば廃れるものもある。もっというと、大衆文化は特に為政者側から禁止されては姿を変え、という歴史があるものだ。それが、たまたま近代化のもとでその時の形態が伝統文化という名のもとに規定され、残り続けているだけであり、時代の残滓にすぎないものだってあるだろう。大体、今、琵琶法師が一般的なものであるか?

確かに、やり続けないと失われてしまう文化はあるだろう。それが大衆の娯楽として成立していたときはよいのだろうけど(とはいっても、何も失われずに今に息づいているものなど何一つないと思うが)、そうでなくなったときに、それを惜しい物とするかを考えるのは社会の役目だろう。極端にいうとしかし、ここで失われる文化というのは再生装置としてのそれなんだよね。作品というものにまで踏み込んでそれを排除する(保護しない)というかというと、そんなことはない。容易に保存可能なものは遺産として残り続ける部分はあるだろう。過去の素晴らしい演奏は失われたかもしれないが、曲は譜面として残り続けているように。

なので、ここでいう文化がある程度無条件に近い形で保護されているというのは歴史においては例外的な状況ではある。

というところまでは、事実としてあると思うんだけど、この例外的状況は、あくまで歴史の中での例外的状況であり、今電気が使えるのは歴史的には例外的状況だ、というのと何ら変わりのない、詭弁に近いものだ。文明の進歩とともに文化が保護される社会を実現したことを我々は誇りに思わなければならない。もっというと、それを継続するためには社会は停滞してはならない。退廃してはならない。みなが想像するネガティブな近未来像を考えてみるとよい。たいていの場合、そこには廃墟と言うメタファーによって文化が失われたことが示されてるじゃないか。

文化がそもそも金持ちが自分のエゴで振興してきた娯楽であることは確かだと思う。そして、人類の近代化にともない、それはみんなのものになってきた。だから、それを続かせる必要があるかどうかを考えるのもみんなの仕事だ。

それが例えば、一人の為政者による恣意的な選択によって行われるということは、文明の敗北であり文化の退廃である。そう思うべきなのではないか。

とはいえ、無条件に金をかけ、保護していくべき、ということを主張したいわけではないよ。残念ながら、社会を停滞されることが文化を死滅させていく要因になりうる以上、社会を活気づかせることにリソースを費やすことは必要な取捨選択だ。ただ、技能職である文化の担い手に対して、段階を踏まない廃止を行うようなやり方は行政としては能が無い話ではあるし、文化的価値のある建物をどう扱うかについても同様に行政としての手腕が問われることではある。文化とともに滅ぶことを選択しないのも為政者としての役割ではある。
でもそこで重要なのは、「意味が無い」と断じてしまうことではない。文化的であらねばと思い、涙を呑んで金を出すことをやめる。そこで何のためのどういう選択がなされたかをきちんと説明する。それらが欠けているのであれば、文化的でないとの非難は浴びるだろうし、判断の是非は後世でも問われることだろう。

社会の側も全てが行政によって存続させられることを期待してはならないと思う。特に、社会的にある程度認められてしまった文化ほどそういう空気があると思うんだけど、それはやはり甘えではある。様々な手段を講じて文化を守ろう。税金を費やしてもらうのはそのひとつの手段でしかない。でも、文化に税金を費やす社会を誇りに思いたい。それを行う為政者を誇りに思いたい。

今行われている改革というのは、ある種の社会的退行であり、それが本当に他の手段が無いが故の選択なのかというのが常に問われ続けている状況だ、という風に僕は理解している。