正義が失わせるもの

厳密に社会的正義を実現しようとすると、いくつかの個人的な正義は失われていく。個人的正義は厳密に言うと社会的正義ではないからである。もう少しツッコむと、それは正義かもしれないが正義でないかもしれないから、社会としては正義としては定義しない、というものだろう。
そのあたり、社会学をきちんと学んでないので印象論ではあると予め断っておく。

さて、その個人的正義を体現する一つが、暴力だ。世にあふれるマンガや小説、ドラマなどを見る限り、一般的に「筋が通っている」「正しい」と思われる側が間違った側に暴力を振るうのはそれが「愛のムチ」「悪を滅する」という正義の理由であれば許容されているように思われる。ではなぜ現実ではそれが許されなくなっていくのか。それは、一方的な正義というものはありえないからだろう。

かつて、この正義の空間は色々な現実の中にもあった。最も代表的なのは学校であり、体罰というものだろう。

教師の立場から言うと、しつけの範疇である鉄拳制裁ができないことによって、物事を収めるためには理屈で屈服させるか(これもある意味大人による言葉の暴力になるようにも思えるが)、誰も幸せにならないだろう、司法の介入をごく簡単なことであっても導入せざるを得ない。であるならば、問題を明るみにせず隠すのが処世術だよなあ、と思ってしまう。

もちろん体罰を肯定せよというわけではない。でも、仮に、ここで手を出せば(それが暴力を伴うかどうかは別として)重大な結果を止められる、となった時に、個人の正義感からのその行為がきっかけで、自分の人生を失わせる事になった場合、誰が責任をとってくれるというのだろうか。

ここにもう一つ、社会的正義の行き過ぎがある。それは、社会的評価がその人の行為の背景の崇高さではなく、事実のみで行われるようになったことだ。犯してしまったことは犯罪であれば償わなければならない。でも、その心を皆が認めていて、償うことによって次のステップに進める(復職や転職になんら問題がない)社会であれば、個人的正義の遂行はしばしば行われるだろう。
ただ、こういうものには共通の文化による文脈、特に宗教的な文脈の影響が大きいので、現代に合っているかといえばそうでもないだろう。

不思議な事に、政治家の世界だけはどんな犯罪を犯しても「禊」が済んだら元に戻るらしい。

ともあれ、そういう社会であることを懐かしみ、肯定せよ、というわけではない。社会は常に進化し続けなければならない。

であるならば、僕達に足りないものは何なのだろうか。

実のところ、この手の個人的正義の抑制は、実運用の現場にのみ過剰に適用されていて(まあ、行為者であるから当然だが)、上位に及んでいないことがままあることが問題なのだろうと思う。学校で言うと教師ではなく教育委員会のようなものだったり。現場に社会的正義を求めるのであれば、自らも社会的正義の元に動かなければならない。なのに、事件が起きても警察の介入がおかしなことのように受け止められているきらいがある。それではどうにもならないよ。

個人的正義を遂行しなくても済む理想の社会のためには、組織と運営もその縛りをきっちりと適用し、社会的正義をもって動かなくては、正義というものはその狭間の暗黒空間に落ちてしまって存在を失う。