通勤地獄とベビーカー

東京の通勤時間帯にベビーカーで乗り込んでくると言うのは正気の沙汰ではない。あのすし詰め空間に、脆弱かつ空間占有度が高い物体を持ち込むことで、立体的に組み上がっていることでかろうじて支えられている車内のバランスを崩すなんてのはとんでもなくリスキーな行為であり、結果として急ブレーキによりたまたま隣り合わせた巨漢がベビーカーを上から押しつぶすことを防ぐことはできそうにない。大概の場合、安定を欠いた上半身を支えるため下半身に多大な負荷をかけることでそれを防ぐ努力はなされる。僕も職業柄腰は良くないけど、その理由の幾分かは通勤電車で何かを押しつぶさないようにする努力によるものだ。
迷惑と言ってしまうと単なる感情の発露と捉えられがちなんだけど、実際のところ、それは持ち込まれたリスク増大要因の対処に苦慮するという現実を表現しているにすぎない。なぜ、ベビーカーをこんな状況に押し込まなければならないのか。理由はいろいろ想像できる。止むを得ない場合だってあろう。僕だって止むを得ない理由で楽器を通勤の時に持ち運ぶ必要がある。その場合、よっぽどの事情がなければ普段より一時間以上早く家を出ることを厭わない。周りにとっても、楽器にとってもリスキーだから。でも、家を出る時間を調整できるのは幸せである。そんなことはわかってる。
こんな状況になっているのは、もちろんその状況を打破するためのコストを社会が容認していないからだ。ライフスタイルや家族構成の変化、働き方の変化の急激さに対して社会インフラは進歩していかない。一度作られた巨大なインフラは社会全体のエコシステムが機能しないと更改には困難を極める。小田急線の高架複々線化が難しい理由は何か。大多数の利便性を確保するために少数の不利益を許容しない社会は建前の正義を守れるかもしれないけど発展はできないかもしれない。不況下ならばなおさら。
しかし、ベビーカーを車内に持ち込むなというのは社会的に困難を抱えているものへの負担の押し付けでもある。少数への不利益は強者には適用されづらいが弱者は犠牲になりやすい。これは社会の手抜きでなければ不正義だろう。
とはいえ、困難なインフラ更改を実現できるかどうかは結局のところ、採算性に帰結する。通勤時間帯にベビーカーを安全に持ち込めるために必要な電車賃がいくらになるか想像がつかない。果たしてそれは妥当な負担なのか。とても、そうは思えない。であるならば、通勤時間帯にベビーカーで乗り込まなくてはならない事情をなくす方向にコストを掛けるのが妥当なのではないか。ベビーカーが車内に持ち込まれることによって発生するリスクを許容できないのであれば、育児と医療に関する社会のコストをもっとかけるべきであることに積極的に賛成しないといけない。あるいは、通勤しなくても住む環境づくりを目指すか。
冒頭述べたように、通勤時間帯のベビーカーの持ち込みは大変危険だと思う。そして、そうせざるを得ない状況が発生してしまうのは大変遺憾なことだ。なにも好きこのんでリスクを取りたい親など居ないだろう。であるならば、せめてベビーカーで乗ってくることに対しての最大限の配慮はするつもりで電車に乗りたいとは思う。それでも、危険であることにかわりない。せめて一定の需要が存在するのであれば専用スペースを設けるなどできるのだろうけど。
リスクとのトレードオフの負担を個人に押し付けないようにできる方策を考えなければならないと思う。少なくとも、ベビーカーを持ち込むな、が解決策ではないよね。

ただ、遊びのためにベビーカーを持ち込むのは馬鹿げてると思う。簡単に避けることのできるリスクをあえて選択することが回り回って止むを得ない人へのコスト増に繋がる。という話を抜きにしても、そんな危険な行為を行うことによるリスクを子供に負担させるなよと思うんだよね。迷惑をかけるな、ではなくて高いリスクを選択するな、でしかない。これはでかいキャリーバックとかも同様で、仮に人に怪我をさせてしまったら楽しい旅行が台無しなので、そう言うことができるだけ最小化されるような行動をとった方が幸せだよ、というだけ。リスクをとるだけの妥当な理由があるなら結果については文句を言わない。それだけのことではある。
これだけITが発達してきているのだから、在宅勤務や通勤時間のシフトなんかは昔よりはるかにやりやすくなっている。問題は、やはりただではできないことで、また、昨今の電力問題とも関連していることだ。こう言う問題にこそ政治が旗を振らないと実現しない。くだらないサマータイムの実験をしてないでこういう問題に対処することを考えてくれないものか。