人の死を食いものにすることについて

良かれ悪かれ、人の死というのは人間にとって、あるいは社会にとってイベントであることは間違いない。だから、それを目当てにした商売というものは常に存在するし、そのことを悪いというのは僕には難しい。一つ間違えば「賤業だ」という事になってしまう。それはおかしな話。ただ、人の心の弱みに付け込む悪質なものがあることも確かで、そういう点からきちんと逃れるために、人の死を扱う場合は過度に儀礼的になる。
葬儀屋みたいなダイレクトワークにおいては儀礼は十分に発揮される(いい面も悪い面も)けど、報道や、もう少し別の形でのメディアによる利用は死との距離が遠くなる分失われていくことも多い。
注:以下の発言は本人のものそのままではなく、多少悪意のあるサマリみたいなものです。

坂口   「東日本大震災の直後は日本人ってだけで世界中のネットユーザーが同情心からチヤホヤしてくれる状況がありまして」
ヨシナガ 「ああ(笑) 確かにそういう時期あったよね」
坂口   「そのビッグウェーブに乗るしかないと 便乗してやろうと」
ヨシナガ 「まあ当然だよね」

日本人が死ねば死ぬほどフォロワー数が増えておいしいです^q^

目的があって、チャンスがある。だからそれを利用する。その事自体は僕はおかしくもなんともないとは思うんですよね。ええ。問題は、それを公言してしまうこと。公言することにより、問題が出てくる。
はっきり言ってしまうと、単純にゲスいってこと。人の死を踏みにじるような発言に見えてしまうと、その利用された側の気持ちがかき回される。ようはさ、そのビックウェーブに乗った結果、利益を独り占めしました!ざまーみろ!的な見え方しちゃうんだよね。死の当事者にとってゲスいものを見せられるということはそれだけでも精神的なダメージですよ。
ちょっと元のソースが見れなくなったのでこの要約がコピーなのか書き直されてるのかわからないけど、「同情心からチヤホヤ」「(笑)」「便乗」「当然」あたりのキーワードをもうちょっと儀礼的に整理するだけでもよっぽどマシではあります。
でも、やっぱりこういうのは事実であっても公言しないほうがよいよね。日本的には。
自らを恥じるってのはいい面も悪い面もありますけれども、日本の文化の良い所だと思っています。
もし、仮に功成りとげ、いい歳になって「昔はそういうことをして〜」と述懐する分には「恥ずかしくて公言できなかったんだな、勇気のある告白だな」みたいに受け取ってもらえますけど、まあこうダイレクトに「自分は下衆です」みたいなことを喧伝するってのはもう新しすぎて困っちゃいますよね。
少なくとも、当時から恥も外聞もなくそういう意図で人の死を食い物にしていたんだな、ということが未来永劫残ることがプラスに成るとはどうしても思えないんですよ。
炎上マーケティングってのはうまく使えば面白いんだけど、こういう人の心の底みたいなのが炎上しちゃうと取り返しがつかないんじゃないかなあ。

そろそろ、ノーアクセス、ノーコンタクト、ノーバイイングって感じ?批判もネタとして喰っちゃうような奴らに一番効果的なのは無視だと思うので、次回からはほのめかしで頑張ることにします!