正論の強さと脆さ〜はるかぜちゃんの危うさについて

仕事をしていると、どうしても「正論」にぶつかることがある。前にも書いたような気がするけど、正論ってのは絶対的な正しさを意味しているわけではなく、ある観点からの正しさに過ぎない。正論との戦いってのは観点が価値観由来であれば価値観のぶつかり合いだし、現実感由来であれば、理想と現実の戦いである。
ただ、正論自体は、その正しさを通す困難を乗り越えることができるのであれば、ぜひそうするべきだ、というものであることが多いから、僕自身は正論を主張する人は嫌いではない。辟易する場合もあるけれども、そういう筋の通った主張をしていくことは、長い目で見るとプラスになることも多い。
だから、その困難さの度合によっては、正論を主張されると困ることもある。
ときとして、正論が「きれいごと」なのは、その困難や現実の問題を見ていないままで主張することがあるからだろう。現実をつきつけられ、とたんに意気消沈することもある。マンガやエンタメ小説なら、一度は挫折し、そして決意を新たにするところだが、現実の社会は厳しい。

子供は、正論をしゃべる生き物だ

子供にあって大人にないもの。それは、正論すなわち正義であるという考え方。いや、大人にもあるかな。それを大人というのかどうかは別として。
子供の頃、なぜ正しいことが世の中に通用しないのかがわからない時期があった。不思議な事に、子供の中でも正論をしゃべることが揉め事の元になる。何故だろう。正しいことなんてひとつしかないのに。
…そんなことはなかった。正しさなんて無限にある、ということを知ったとき、少し世の中の秘密がわかった気がした。
厨二病をこじらせると、正義が実現しないのは悪がいるからだと勘違いする。実際には、別の正義がいるだけであって、それは正義なんて言葉ではもはや呼ばれないのだと気づく。世の中について深い思索をするのではなく、身近な人間とどのように付き合うかを学ぶ。人生をかけるに値するものは世の中という曖昧なものではないことだ、と思うと、かえって世の中のことが見えてくる。
そんな中でも、ちっぽけな正義を主張せずにはいられないことはままある。ぶつかって、砕けて、正論なんてそんなものだと思う。でも、その中に確固たる信念を見つけることがある。僕の正しさは、果たして世の中に通じるのだろうか。いつか、それをどのようにかして実現してみたい。小さな事でも、大きな事でも。その気持は人生を歩むために大きな力になるかもしれない。

正論の危うさ

今、僕は正論の危機を感じている。子供がしゃべる正論は、全世界に伝達し、フルボッコされるためのものじゃない。稚拙かもしれないけど同等の存在と戦って勝ったり負けたりするべきものだと思う。大人と子供では最大の壁「現実」の厚みも高さも違う。子供の正論は大人の現実にあっさり踏み潰される程度のものだ。もちろん、その現実とは、議論を意味するのではない。

タリバン批判の少女、銃撃受け重体

子供が正論を振りかざし、現実を変えようとすることそのものを非難するつもりはないけれども、結果の責任を受けるのは大人では無くてはならないと思う。彼女のやったことは確かに世の中に何がしかの進展をもたらしている。しかし、銃撃されることを覚悟してでもやるべきだ!とは言いたくない。大人ができなかったことを彼女はしたのかもしれない。けれども、もしかしたら、それがもたらしたのは戦争の引き金を引くことだったかもしれないんだよ。

はるかぜちゃんへ思う

僕は、彼女の正しさを否定することはできない。もちろん、僕は世の中話せばわかる人間ばかりではないことも知っているし、ウェブの住人が善人ばかりではないことも知っているし、その人たちに正論を言ったところで何かが変わるわけではないことも知っている。それどころか、論理も何もない理不尽によって攻撃してくることも知っていれば、都合が悪くなれば卑怯にも逃亡してしまうことも知っている。その正しさが誰かの心を打つだけではなく、誰かの暴力の引き金を引くことでもあることも知っている。だから、本当は、行為としては否定したい。でも、僕の中の正義に照らすと、その思想だけは否定したくない。そして、思想を開陳するのは自由だ。
でも、それが現実と折り合わないことがあるのははるかぜちゃんももう知ってしまったことだよね。
正論っていうのはひとつの手段でもある。違う言い方をすると、ひとつの手段でしかない。目的が正義に殉じることであれば、正論はなによりも大事なものだろうけれども。
正論は、多かれ少なかれ、現実を動かす。そして、そのことがどんな影響をもたらすのかは常に意識しなきゃならないんだよ。その影響が、子供の抱えるべきものではないと判断したら、周りの大人がしなければならないことは何か。そのことを本当に考えてくれている人はいるんだろうか。

正論に挫折しないで欲しい

屁理屈を捏ねて大人に嫌がられる僕は、しかし大人に守られて大人になることができたんだよね。信念とは、自分自身の中で貫くもの。正しさは、自らを律するための価値観。正論の前に立ちふさがる壁は、決して乗り越えたり、粉砕しないといけないと決まっているものではない。歳を重ねて、手にするものが増えた時、そこにドアの設置工事をすることができるかもしれない。