差別とそれをなくす運動の結果についての一考察

個別具体的な事例に触発されてはいるものの、それについては直接触れない。

差別や迫害について、まずもって「生まれ持ったものを理由として」という類のものは今の世の中議論を待たないだろう。
問題は、それが選択と容易に区別できないもの。例えばオタクであることは選択の結果であることが多いが、専業主婦であることが選択の結果であることもある(ある種の合理性によって社会全体がそれを「選択」していた「時代」もある)。選択が社会から個人へとシフトしていった結果、片や正しい価値観と政治的に認められ、片や悪趣味と迫害されることもある、というのはこれもある種の合理性による帰結なのかもしれない。けれども、当事者の主観的に見て差別や迫害である対象が交わった時にお互い同士が理解を示さないということがこの問題の根本的なところだろう。

つまり、差別をなくすという運動の結果が、それを差別される側から差別する側すなわち政治的に正しい価値観に転換しただけであるということだ。今まで差別されていた側は正義を得て、他の価値観を非難し、差別する。

むろん、これは全ての差別をなくすという運動がそういう結果になったであるとかそう帰結せざるを得ないと言っているわけではない。ただ、一部の運動の結果、一部の当事者がそういう態度を取っているようにみえるのも事実だ。

あたかも利権を非難して当選した政治家が別の利権を持ってくるかのような様相を見せることがある。

政治的な正しさに拘泥しているというのは過程の出来事なんだろうな、とは思う。真に差別がない世界であれば、かつてであれば差別と言われたであろう記号において、差別だと言い立てる必要もないのであるから。だから現時点で社会に政治的な正しさを普く求める事自体には理解を示したい。ただ、その当事者たちの言葉から染み出してくる憎悪のようなものがいささか過剰であり、疑念を感じてしまう。もしかして、彼ら、彼女らは、更に弱い弱者を憎むことで自らの正当性、つまり正しい価値観の側にいることを証明しようとしているのではないか。だとしたら、その行為は差別そのものであり、なくそうとしているのは差別ではなく自らへの迫害であり、常に別の差別というスケープゴートを必要とするのだ。