教義そのものが原理主義的要素を多分に含む場合にどう改革するのか

そうは言っても原理主義というのが個別に存在する以上、原理主義じゃない本流というのはある程度曲げて…とまでは言わないまでも現代に適応した解釈をしている、という部分はあるのだろう、と思っている。

ただ、依然として西欧的な価値観にとってみれば後進的な価値観に見えるものが有効であることについて、外野がどこまで口出しをできるのか、という問題は残る。問題は、宗教が個人にとって非常に大事なものであることを保ちながらもそれを社会制度とある程度切り離すことができた世界と、宗教が社会制度の基盤である世界の差異ではある(大雑把)。これは過去の経験の差異でもあるし、一方の側がもう一方の側を多分に原理主義よりにした理由を作ったと言えなくもないので、ことはより複雑なんだと思う。

価値観の衝突というのはかようにして不幸な結果を呼ぶものなんだけど、よりよい社会を構築していくためには価値観を壊していくことがどうしても必要になっていくし、それが原理主義的な価値観であればあるほど人の根源的な部分に根を下ろしてしまっているため難しいこともあるだろう。少なくとも、暴力という解決手段を表向きには選ばない我々(一応)文明人にとっては、この価値観を破壊するという行為は非常に為し難いものになりつつあるのではないか、という疑問はある。
そして、我々の価値観が相対的に進歩していて素晴らしいものであるのかどうかにすら疑問はある。