あからさまに反対を唱えることの含有する他者の価値観の完全否定について

うーん、と唸ってしまう話。
反差別運動と婚姻制度の差別性をめぐって - Togetter

最初のtweetにおける「人間としてどっちがまっとうなのか」という言葉がどうにもアレって話なんだけど、でもこれって感覚としてはわかるんだよね。だってさ、本人の価値観にとって幸福である行為に対して、何の留保もなく「その行為の元になっている制度は差別だ」と否定されるって気分がいい行為ではないし、差別だって言っている人は世の中から差別を無くしたい、そのためには他者の幸せな気分をどれだけ犠牲にしてもいい、と考えている(端的に言うとKYである)ということに思えるよね。

確かに、ここで言われている婚姻制度がある種の差別的な社会的価値観を作り出してきている一因である、ということはあると思う。だからといって、結婚することがその差別を肯定していると一様に見なされるのはおかしい。だから、この「人間としてまっとう」という言葉は、他者の幸せに公然と異を唱えることによっては目指すべき社会はやってこないよ、という価値観の表明なんだと思う。それが正しいかどうかではなくね。

でね、ちょっと思ったのは、みんな細かいことに敏感で、ちょっとでも違和感を感じたらそれを自分の思う正常に叩き直さないと気が済まないのかねと。そもそも、差別が発生する一つの要因はある特定の価値観のもとで物事を評価することなので、他者の価値観を(それが一般倫理のレベルで悪と見なされているもので無い限り)公然と批判するってのはそれ自体が最終的には何かを差別することに繋がるように思えてならないんですよね。原理主義と呼ばれる世界の話になりつつあるというか。
ある程度の鷹揚さを持って、物事を解決していかないと、結局のところ特定の価値観を社会に押し付けるという結果になってしまうだけだと思うんですよね。ヘイトスピーチ憎んで人を憎まず、じゃないといけない。

いやまあ、難しいことだと思うんですよ。でもこの手の話は本質的には矛盾をはらまざるを得ない問題です。社会というものが存在する以上、そしてそこにコモンセンスを作るという以上、完全なる自由というものは存在しません。だからこそ、そこに採択されない考え方を強制上書きして闇に葬るのではなく、なぜそうであるかを語らされそれを墓標にしなければならないんじゃないかなあ。

もごもごした感じの話ですみません。