何かを好きであることとその価値について

芸術ってのは先行者利益の大きい分野であり、かつ、発展再生産的なものも新しい何かと見なされると価値を持ちうるという意味で大変流動的な世界でありますね。難しいのは、生み出されたものの価値に対する批評的な評価ではなく、ただ単に気分として「好きである」がどこまで横断的に適用されるかという話です。
例えば、「クラシック以外は音楽ではない」という人のクラシックの定義は現代音楽入るのかねー(つまりフォーマットなのか、スタンダードな曲そのものなのか)とか、ジャズはいけるけどロックはどうもという話とか、音楽だったら何でも行けるぜ、ただしAKBだけは勘弁な!とか、ポップな音楽(その定義はさておき)とそうでないものは価値そのものが違うとか、いくらでも論点はあるわけです。それぞれについての意義を批評的に語ることはできるにしても、単に好き嫌いの話は意義とは別に存在しうるということですね。

奈良美智 「自分の作品のファンがラッセンも好きなら発表をやめる」 - Togetter
この手の話は、受け手側に「批評的審美眼の持ち主である」ことを要求していますが、単に好きって言っているレベルの人だったら当然ラッセンも好きという人が相当数含まれていることは想像できますね。
もっとも、これは「奈良美智が好きな人はラッセンが好きなんだろう」という発言についてはカウンターであって、ここでは「批評的な審美眼を持ちうる人のうち、奈良美智が好きな人」という暗黙の前提が含まれていますから、通常の「単に色々好き」な人のことを指していないのは自明なんですけどね。だとしても、奈良美智が好きな層がラッセンが好きな層と被っていないとは言い切れません。とは言え、ラッセンが「あんなの芸術じゃない」的文脈で語られすぎているような気がします。(ラッセン自体の批判はもうちょっと別のところが中心だと思う)

ぶっちゃけ、現在進行形のアートとしての消費のされ方という観点で見てしまうと、奈良美智ラッセンがどの程度違うのかってのは評価しづらいんですよね。

昔大野さんが書いてた話。
ラッセンとは何の恥部だったのか - ohnosakiko’s blog
ほら、ここでいう「ヤンキー」的な文脈において奈良美智が機能するかどうか。僕はすると思うんだよね。ただし、受容の方向性はちょっと違う感じはするけど。

理屈的受容と感覚的受容って同じ人においてもかなり違った選択をしがちだから、好き嫌いってのを単純な言葉として何かの評価基準にするってのは余り適切ではないのかな。