サブカルが新しい教養にならないことが日本人をバカにしたのか?

なんかこう個人的に鮮度の高い話題ですなあ。

今の日本のサブカルチャーがつまんねーよ、と思うのは、まんがもアニメもポップスもプロレスも大衆文化を「古典」や「教養」としていない送り手と受け手によって作られ消費されているからで、それは単なる不勉強で馬鹿なだけじゃん、といい加減言っといてもいい気がする。

教養抜きのサブカルが日本人を致命的に馬鹿にしたとの分析│NEWSポストセブン

で、古典や教養とか言っているとラインハルトと言えば金髪の孺子というひとりよがりが誕生してしまうわけですよ。
衒学的なものが「偉そう」とかいって好まれなくなってきた現状みたいなものは感じなくもないし、「知っていることを前提」とした小説は減ってきたように思える。もっとも、時代物なんかはそうでもないというむしろ最新の研究結果を基にさらにでっち上げるみたいなものも多い気がしてならないけどね。
誰かが先のエントリについてコメントしてたけど、まさに香炉峰の雪がどうのこうのというやり取りが教養であった時代というのは情報量の少ない時代の産物であると言えなくもない。少なくともSFで教養ごっこをするためには「まずは千冊」というのは誇張ではなく、消費こそが信条である(というと怒られる?)のサブカルチャーにおいて、よっぽど有名な作品であってもそれを「教養として下敷きにした」作品を作るのはまず難しい。生まれて100年も立たないカルチャーにおいて「古典」として何かを行うことはありえず、単に同時代性における引用にすぎないと思うんだよね。

ホームズをサブカルチャーの古典呼ばわりしたら怒る人もいるだろうし、そもそもホームズを教養としているクラスターなんて外国でも稀なんじゃないかと思うんだけど、そのへんどうなんだろう。探偵小説なんて教養とはいえないよね、という向きだってあるだろうし。一方で、明智小五郎だとか金田一耕助だとかは十分記号化されているように思えるし、それを踏まえた作品だってたくさんある。黒澤映画を踏まえた演出だってたくさんあるし。

むしろ、引用をしないで表現をする、というのは送り手側も受け手側も真っ白なところから意図の伝達をしなければならないという意味でハードルが高い。だってさ、教養を用いた表現って「知ってればわかる」でしかないんだよ。そういう意味では、日本の表現は(その文化的・言語的特性のせいかもしれなけど)高度に記号化文脈を発達させてきたと考えることだってできる。萌えとかツンデレとかいう概念が成立したりするのは作品の固有部分ではなくそのコードを受容してきた日本ならではの高度な教養なのかもしれない(言い過ぎか)。
古典としてハリウッド映画に「言及」するのが教養か?こっそりパロって知っている人だけがニヤリとするようなのならともかく、あからさまに言及するのは単なる表現を補う行為にしか過ぎないよね。よくできた物語の中で決め台詞を引用する、みたいなものは効果的だけど、毎回言及するのって「お父ちゃんアレやってアレ」みたいなレベルじゃないのかねえ。

そういう欧米式「教養のある大衆文化」を受容している層がじゃあエーコを読めるか、というとそんなことないだろう。いや、エーコは背景知識なくても面白いけどw「バスカヴィルのウィリアム」という名を見て「ああホームズだなー(ニヤリ」とすることはできるかもしれない。そして、それ以上のなにものでもないだろうね。

少なくとも、ルーシー・モノストーンがどうたらとかいうマンガが大衆文化の古典を全力で踏まえているとか日本人の頭を良くするとはどうしても思えないんだけどな。