差別というか、役割の象徴というか

ホントみんないろんなことを考えていて感心します。

差別と表現の問題ってのはホント一筋縄ではいかないですね。個人的に思うところがあることを表明すること自体が政治的には正しくないという事態にもなってしまいますしねえ。

差別心を持たない人間はいないと思っています。当然ながら人間の価値は自ら見て常に相対的であり、徳と言われるものの量であるとか、相対化されたものを還元して絶対化する強いロジックと信念によってのみ差別は減じられるのだとも思っています。

ヘイトにもつながる強い差別心と、他者の役割を(勝手に)規定するゆるい差別心というのはしかし本質的には違うと思っていて、後者を克己するのは現実的にはなかなか難しいですね。場合によってはそれは合理性から見ると正しいことだったりすらしますしね。全ての役割を勝手に規定されている人が役割を「甘んじて受け止めている」わけではないし、それを否定することは価値観の多様性の否定につながるからです。いや別にそれは選択的行動が自由に取れたら当然なんでしょとも思いますけれどもね。

つまり、前者の差別をなくす話は共感を呼びやすいのに後者はそうでもない理由は、果たしている役割が差別の結果か選択の結果かということがにわかに区別がつかないからということですね。

だから、後者の問題についてヘイトを撃滅せしめるくらいの勢いで批判することは差別議論以前の部分で反発を呼んでしまうんじゃないかな。非常にセンシティブな話だから批判しないで済ます訳にはいかない、というのは分かるんですけど、非常にセンシティブな話だから批判のやり方を間違えないほうが良いのではということです。差別を批判する人はともすればそこには差別されている対象しかないと思いがちなんですけどね。選択をしている人もいるんですよ多分。