不謹慎とアート

アートという言葉が無敵の免罪符になった時、アートは死ぬのだ。

モーツァルトは不謹慎な存在だったけど、残したものは芸術そのものだ。たとえそれがホルン奏者をいじめる意図で書かれた曲であっても。

遺されたものがアートでなければ、なんであろうか。ゴミだ。

不謹慎がアート足りうるのはそこにアーティストが打ち破らなければいけない価値観があるからこそである。
しかし、価値観を打ち砕くのがアートなのではない。その価値観が打ち砕かれるべきものであることを衝撃とともに鑑賞者に叩きこむのがアートだろう。

その点でいうと、「福島第一原発麻雀化計画」(この名称も人類補完計画のパロディの出来損ないを感じさせる)はアートではなくせいぜいブラックユーモアのたぐいであり、かつ面白くない。面白くないブラックユーモアなどゴミというのも上等な話で害虫だとすら言える。

企業の不見識を嗤うために他の人間を不愉快にさせるという時点で皮肉のターゲッティングに失敗している。東京電力と政府関係者が苦笑いして後の人間はまあまあの割合で爆笑するくらいのネタであれば不謹慎を打ち破ることができるだろう。不謹慎の壁に敗北した時点でブラックユーモアとしては失格だし、アートなどという上等なものでは当然ない。

不謹慎なのが悪いのではない。そこに価値観の打破も衝撃も何もないものをアートと呼んで擁護するその精神性は批評家という言葉を冠するに値しない。