術から道へ、その心を

こんなのを見かけてしまった。

もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

これ、根本的に誤っていると思うんだけど。

「精力善用」「自他共栄」師範書
嘉納師範はこの原理を「精力善用」の標語で示し、これこそ柔道技術に一貫する原理であるとともに、社会生活すべてに於ても欠くことのできない重要な原理であることを明らかにしました。
そしてこの原理を実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩と発展に貢献すること、すなわち「自他共栄」をその修行目的としなければならないと教えました。
主とするところは「術」ではなくこの原理と目的により自己完成をめざす「道」であるとして、術から道へと名をあらため、その道を講ずるところという意味で名づけられたのが「講道館」という名でした。

http://www.kodokan.org/j_basic/history_j.html

柔道は、道であることによって殺人技からスポーツになったんじゃないかな。

スポーツ(英: sport)は、人間が考案した施設や技術、ルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体や頭脳を使った行為

スポーツ - Wikipedia

ルールに則って、というのがポイントであり、ちょっと強引だけど、これを道として考えた時、当然ながら社会のルールに則って行われることが重要になると思うわけ。

そもそも、心身の鍛錬と道を極めることは直結しているけれども、その鍛錬の中に「いじめに耐える」「体罰に耐える」というのが入っているかというとそんなことはない。

日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

如何にして勝つかを考えることと、スポーツとしてルールの枠の中で競技を行うことは同時に行えることです。問題は、いじめられたり体罰されたりすると勝ち方が変わるの?そうじゃないでしょ?あくまで、日本の柔道として勝ち方にこだわってその目的を達するためのトレーニングをする。それだけの話。

これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

そういう考えがあれば体罰していいんだー(棒

というか、そう考えるのであれば、柔道界には理不尽な暴力がはびこっているということなんだからもっとメスを!という風にならないとおかしいんだけど、一体全体何が言いたいんだろうか。

なぜ、スポーツであることと武道であることの違いの中に体罰を肯定する余地があるのか、さっぱりわかりません。

嘉納治五郎先生が目指した柔道というのは、決して無闇矢鱈に他人を傷つけるものではないはずです。そして、その「道」に合わず飛び出していった人も沢山いるわけです。むろん、「強い」ということについて講道館の枠を超えた人たちは比類ない。のだけれども、柔道がただ素晴らしい勝ち方だけを目指し、それ以外は社会的にも人格的にも破綻していて問題ないという「道」ではなかったからそういう対立もあったのではないかな。

現実的に、理想のまま運営されているとは思っていないけど、建前を守らないとどうしようもない。