「自戒を込めて」と「サンドバック宣言」の決定的な違いについて

もう参照するのもアレなイケなんとかさんがまたしてもアレでブーメランなことを言っているので考えてみる。
人はいつまでも成長し続けなければならないと思うんだよね。孔子じゃないけど「三十にして立ち、四十にして惑わず」くらいまではやはり意識しないといかんと思う。僕もネットに文章をものすようになってから長いけれども、過去の自分を振り返った時、「あの時はなんであんなバカなことを考えていたんだろう」とか「あの時信じていたアレの間違いに気づいてよかった」とか思うわけ。誰かのアレなことを批判するときにあえて「自戒を込め」るのは、自分も同じ過ちをしてしまう可能性を常に持っていること、時にはやらかしてしまうこと、そのことに自覚的になることを宣言しているようなもの。責任回避の言葉では決してないんだよね。だって責任は行為そのものから生まれるわけで、自戒の念を持っていたら免責されます、なんてことはありえないんだから。これは同時に、過去の(その手の行いをしていた)自分から訣別する宣言でもある。であるならば、自戒の念の表明というのは自ら埋設する地雷であり、やらかしてしまったら「お前口だけじゃねーか」という批判を甘んじて受け入れざるを得ない。
一方で「サンドバック宣言」とは何か。これはもうアレ。「いくらでも俺のことを叩いてくれ。俺は反省しないけど」というこれこそ究極の責任逃れ宣言なのではないか。叩かれることを許容する代わりに内容についての責任を回避する。これでは三十になっても立てませんよ。四十になっても惑いまくりでしょう。無成長宣言とも言えます。
過去(あるいは今)の自分の悪いところを他者から見出し(いわゆる反面教師ってやつな)、自戒の念も込めつつ言及する。これは人格というのが完全に固定されたどうにもならないものではなく、死ぬまでより良くなろうとすることができるものであると考えている人にとっては普通の行為だろう(そして、他者に言及しちゃうようではまだまだなのであるけれども←自戒)。
いくら叩かれても平気、というのにもいくつか種類があるよね。叩かれたことについてどうでもいい点(単なる中傷など)と参考にすべき点、改善すべき点を見出して、自分に取り込む場合と、常に「俺は正しい」と思い込んで無視するものと。あるいは、考え方の正しさが基準ではない場合もある(詐欺的なものへの批判などに対する態度)。成長を放棄した人に未来を語られるってのは非常にキモチワルイんだけどね。

「自戒を込めて」がなんか小生意気な免罪符的な物言いに感じられてしまう人はもう一度考えてみるといいと思う。今自分がやろう(言おう)としていることに「自戒すべきこと」はないのかどうか。そしてそれを口にだすことが宣言的な行為である、ということを意識するとそれほど嫌味ではないと思うんじゃないかな。で、もし自戒ばかりしていて成長していないことを見出したら「お前そうは言うけど全然成長してねーな」といってあげてほしい。

あ、サンドバック宣言って街頭の殴られ屋みたいなものだよね。アレなエントリを読まされるという時間を代償した分におもいっきり殴るのが礼儀ってもんだよね。