動物実験と供養

文学部だって動物実験をするのだ。毎年夏には慰霊祭を行なってわざわざ坊さんまで呼んでいた。文学部だって動物実験をするのだ。
個人的な意見でしかないと前置きしつつ。

でもこれらは、倫理に対しての回答にはなってない。
人間>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>動物
というのを、無意識的に前提としておいていないと成り立たない。
人間>動物
程度だと、かなり注意しないと動物実験の正当性を説明できなくなる。
あー、判りにくいか。
「動物」を「ユダヤ人」に、「人間」を「ナチス」に置き換えると、上の4つの意見が途端に醜悪なモノに見えてくるだろう。

動物実験って、よく考えたら微妙な問題だよな

この手の話で間違っちゃうのはだいたいこのへんだと思う。もう一つ重要な比較が必要。動物実験の犠牲になる動物と、食物として犠牲になる動物。これらを隔てるものは何か。動物実験は苦痛を伴うものもあるけれども、犬猫のしつけレベルのものもあったりする。解剖となると命を奪うこと確定ではあるけど。
確かに、同じ生命として等しく価値をおく、ということは行われない。明らかに人間の方が価値を上に見ている。逆説的かもしれないけれども、人間が知性・理性のある存在だからこそ、動物実験は必要とも言える。同様に動物実験を否定する考え方も、その頭でっかちから出ているものだから否定はしない。でも人間が十分に理性的でなく、科学の進歩がなかったらどうなるか。未だに(いや、未だに行われているところはあるが)熊の肝臓がどうだとか、人の生き血でお肌ツヤツヤとか処女をレイプしたらエイズが治るだとかそういった類の言説とともに動物たちもさらに消費されることだろう。だから、動物実験をすることがかえって動物が無為に人間の犠牲になる数を減らしているといえる。
かつては、それは人間で行われていたわけだから、動物は人間が人間を実験対象にすることの代替として犠牲にされているのでは、という考え方もあるだろう。現代の倫理観からいくと、動物実験が罪深い行為であることは議論を待たないだろう。もちろん、家畜を食すことも同じくらい罪深い行為だ。だから、動物実験の犠牲になった動物たちは必ず慰霊されるし、その感謝の気持ちが無為な犠牲から動物たちを守る。

無論、これは詭弁に近い。なんだってそうだ。倫理で何かに線を引く時の理由なんて大抵詭弁にしか見えない(もちろん、そこには深い深い思索の果てがあるけれども)。我々のエゴによって犠牲になる動物たちには感謝を。いつか動物実験が不要になるときを夢見て、われわれは動物実験を繰り返す。