障害者差別をしないという「建前社会」を作るために

ちょっと主語の大きい話をしてみる。
乙武来店拒否問題ってのは非常にいい契機だと思う。彼は紛れもなくいわゆる「障害者」だけれども、社会的にはそれほど弱者ではない(あくまで立場としてね)。とは言え、たいていの障害者はなんらかの部分で弱者であり乙武氏もそうだ。もっとも、「障害者」でない弱者もいる。自力で階段を登れないほどのデブはエレベーターが無いと来店不能だろう(むしろ車椅子のことを考えなければ障害者よりも困難かもしれない)。
特定の店にアクセス不能であることがすなわち差別である、というのは実際的じゃない。物理的困難はできるだけ解消されるべきではあるが。

僕達には内心の自由が保証されていて、そのことはすなわち「差別は良くない」ということが道徳の問題であること、道徳とは社会による建前の構築であることがわかる。「人の悪口を言ってはいけませんよ」というのは人を悪く思うのが良くないと必ずしもイコールではない。でも、悪く思わないほうがいいよね。道徳や宗教はこれを罪だのなんだのといって矯正しようとすることはある。しかし、現代の建前においてやはり内心は自由なんだと。ただ、それを表明しない。そういう規律を守ることで、口に出されることは少なくなるし、口に出されないことを思うのも無意味になっていくだろう。建前は建前でしかないんだけれども、建前を貫くことでそれが真実になるということはありえる。難しいだろうけど。

まあどこかの本音至上主義みたいな人がいるとそれは実現不能かもしれない。本音を言うのはそれが社会(というのが大きすぎるのであれば、声をかける個人)にプラスになるという判断からであるべきだよね。

建前を言うのであればそれには例外はあってならないだろう。例外を作るということがそもそも差別の構造なんであるから。口が裂けても「こういう酷いブログ書くような人が仮に障害者になった時、周りの誰もが手助けしないだろうと思いました」なんて言ってはいけない。むしろそういう人でも差別されないように尽力するというのがこの問題にコミットしている人の道である。この手の因果応報的な考え方が例えば犯罪を犯し改悛した人が生きることを困難にしているような元凶だろう。ただし、個人として軽蔑することは別だ。軽蔑はするが障害者である以上そこの部分に対する手助けはするべき(その後軽蔑心を示すのであれば、自分は同席できないから帰る、などの手段はある)。

乙武氏側としては今回の件は「応対が悪かった」のであればそれへついての怒りの表明に留めるべきだったのではないかな。エスパー魔美のお父さんじゃないけれども、人は自分が受けた何かに対し怒りを表明する権利がある。もっとも、報復の意図はなかったのだろうと思いたいところだけれども。

でもって、今回痛感したのはやっぱりTwitterがなぜか本音ぶっちゃけツールになってしまっているよなってところかな。前からだけど。そういうのを何とかして行かないと何時まで経っても強固な建前は構築できないよなあ。