「怪しさ」の果てにあるもの

異常な犯罪検挙率及び有罪率(誇るべきこととしているがはてさて)を誇る日本の警察、司法の虚構が見え隠れする今日このごろですが、この件の進捗を見るたびに暗澹たる思いになりますね。

検察側は、片山氏が犯人とみて矛盾しない、あるいは片山氏が疑わしく思えるような間接証拠をいくつも出している模様だ。そうした証拠を積み重ねることで、有罪の心証を形成しようという作戦なのだろう。

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正直なところ、僕達が知りうる情報を元に考えた時に、片山氏は十分「怪しい」。でも、それと同じかそれ以上に、「犯人ではない可能性」が十分あるとも思えます。
日本では「怪しい」→「犯人」の見えない道筋を自白で埋めることを常套手段として来ました。時には虚偽の自白を強要されたり、誘導されたりもして来ました。自白がないと途端に今回のような「間接証拠」程度のものしかでなくなるっていう事件も多々あったんだと思うわけで。

取り調べている人の心象は想像するしか無いけれども、長年の経験で何か確信めいた物があるのかもしれないし、長年の経験でただただ自白をさせればあとはなんとかなるって思っているのかもしれないし、とにかく、何かしらの成算があってのことだろうとは思うんですよ。でも、その手法はかつては正義だったかもしれないけれども、今はそうではない。警察だけが旧態然としていることに誇りを感じていたらマズイと思うんだよね。

さて、実際のところ「怪しい」といってもそういうレベルのものでしかない。この事件に興味を持っていて、色々調べていた人があの日あの方面に出かけていたらその人だって怪しいとされるレベル。つまり、怪しさってのはA型が几帳面っていうくらい、適当にでっち上げれば当てはまる人がたくさんいるという話でしかないんじゃないかと思う。たまたま、複数の条件が重なったせいで犯人と目される人。最有力、という程度の問題に落ちてしまうと、こうなる。

絶対的な証拠がないと逮捕できない、となると難しい部分はあると思うんだけど、取り調べの中で絶対的な証拠がないのに間接的証拠を元にした有罪の心象で起訴に持って行くんだとしたら、その構造そのものが冤罪大国日本の病理であるのではないかと思ってしまいますね。