正義の限度

昨日の記事はどうもちょっと誤解を招いてしまったようですね。「捏造した制作会社はクソ。テレビ局は再発防止に力を注ぐべき。だからといって局や社長に対して厳正な処分を求めるのはやりすぎ」と言いたかったんだけどね。騒ぎすぎな部分にフォーカスしたから伝わらなかったのかも。ちなみに最後の「それこそ政府がメディアをコントロールする契機になりかねない。」は皮肉気味の言葉です。

解説しなきゃならんのは下手だからだな…

さて、久々に言及されたのでちょっとそれについて考えてみようと思う。

まず、前置きとして。
僕はあの『ゲーセン少女』に対して、参考リンク(3)のように当時は考えていたのですが、いまは「やっぱり、フィクションはフィクションであると、なんらかの形で明示するべきだ」と思っています。
あのときは、「実話だと信じた人たちをバカにするような風潮」に過剰に反発していました。ごめんなさい。

『ほこ×たて』不適切演出問題と『ゲーセン少女』の記憶 - いつか電池がきれるまで

この件についてはいくらか過去にエントリを書いたので参考。
「実話」の検索結果 - novtan別館
なんかちょっとポイントが僕の思っているのとは少しずれている。実話風作り話が実話じゃなかった途端騙されたって怒り出す人が僕には不可解ってのが大体一連で書いてきたことなんだけど、僕は現実とフィクションの境目は、それが現実に侵食してくる話でなければ無くたっていいと思っている。現実に侵食するってのは、登場人物が実在の人間である(かつフィクションのネタにされるほど過去の人間ではない)ことや、暗にあそこのことを名指ししているとはっきりわかるような場合。それは現実と異なっていたら嘘になってしまうから。でもそうじゃなければ実話風と実話の違いって殆ど無いよね。
それとは別に、実話風いい話の問題は、それが実話だからという触れ込みのもと、別の用途、例えば政治的なアピール、に使用されることがしばしばあること。

まあこんなふうに思うのは僕が「お話」というのを大抵の場合はフィクショナルに受容しているからかもしれませんね。本当に実話だったとしても、それが事実と完全に一致している事のほうが少ないんですよ。人間は過去の記憶を都合のいい用に脚色するものだからね。


さて。

というのは、なるほどそうだよなあ、と思います。
少なくとも「視聴者」にとっては。
でもね、被害者にとっては「たかがラジコンの勝負じゃないか」ってわけじゃないんだよね。
あの告発者は、人生かけてあれをやっているわけだから。

『ほこ×たて』不適切演出問題と『ゲーセン少女』の記憶 - いつか電池がきれるまで

というのが冒頭に書いた誤解の一つかなと。僕が今回問題だなって思っているのは、「フジテレビ社長の辞任。民放連からの除名は必至ということになる。むしろ早めに首を差し出して放送業界全体の自主的な放送チェック体制を死守しなければならないだろう。」って書いてた人がいるのが怖いよーってことなんですよね。番組が視聴者の(ガチンコであるという)信頼を失う行為をしたのは確かだし、演出のためなら事実をねじ曲げていいという風潮が未だにあるのも問題なんだけどさ、テレビ局としての責任の重大度という意味では非常に小さいと思うのね。

それは、告発者を軽視しているということではないですよ。「たかがラジコンの勝負」というのは根本的に違う視点からの評価です。で、放送局の責任はその視点から問うべきだとも思っています。

でも、一視聴者としての僕の見解はもちろん違う。言うまでもなく、こんな捏造許すべきではない。

ようやく本題というかタイトルの話。

僕達個人個人の正義に基いて生じる問題意識ってのは時として非常に感情的で非論理的なことがあります。冒頭に上げた「実話が実話じゃなかったことに対する怒り」なんてのはその典型だと思う。今回の件も、番組に対する怒りがむやみに拡大しているように思えたから先のエントリを書いたわけです。
まあね、僕もこのような問題について、メディア評論家とか業界人じゃない以上、正しい答えってのを持っているわけじゃないんですけどね。だけど、やっぱりちょっと過剰な正義の押し付けに見えるんですよね。

僕はこの『ほこ×たて』の今回の件って、「被害者がひとり」で、「自分には実害がない」からこそ、メディアの傲慢に警鐘を鳴らさなければならない、と思うのです。

『ほこ×たて』不適切演出問題と『ゲーセン少女』の記憶 - いつか電池がきれるまで

これも不思議な事なんだけどさ、もうこの手の「本人が望まない形での改変」は全部バレるってのが定説なわけじゃないですか。メディアの傲慢っていうか単なるバカで、上層部も「頭いてー」とか思ってるんじゃないかとすら思うレベル。今回告発があったことは良かったし、引き続き「ウソはばれるぞ」と訴え続けるのがメディア批判としては必要だとも思うんですよね。ただ、それは自分に実害があるかどうかとかいうそういう基準とは違います。捏造許すまじ(これはどんな形であっても成立しうる)っていうのと責任取れ(これは社会通念に照らしてどこまで問題があったかに依存する)っていうのはぜんぜん違うレイヤーの話なんだと思うんだよね。ネットでの批判ってそういうレイヤーすっ飛ばすこと多くてね。

自分で言ってても微妙な話だなとは思うんですよ。でも今回の話は「捏造ふざけんな」以上の部分には乗っかれないんだよな、気分的に。