人間としての「抑圧された苦しみ」を軸に社会を考えるのは良くない

例えば、アブノーマル(という言い方が全てを体現している気がするけど)な性癖のお陰で社会的に欲望が抑圧されている人間の苦しみ、というのはにわかには理解し難い。人間のあらゆる抑圧からの開放を目指すとした場合に、その手の問題は解決するのだろうか。社会的には開放してはならない抑圧というものはやはりあるだろう(最終的には適切な代償行為に置換されうる問題になるのがベストだろうか)。
なので、抑圧された苦しみという一軸をもってのみ問題を語ろうとするとこの種の非対称性への適切な反論が難しくなる。

他者の欲望を社会的な正しさから切って捨てるのは簡単なんだけど、社会的な正しさを伴わない場所(内心の吐露であるとか)においてまでそれを抑圧することは人間の自由という建前すらも切って捨ててしまっている。建前を切って捨てることが可能なのであれば、返す刀で社会的な正しさという建前もズタボロになってしまうということではある。

「自分は」社会的に正しいのだから正しさのみを身にまとって闊歩することが許されているのだ、というのは大いに間違っている。社会的に正しいというのは結果ではなく状態である。状態を守るための自由の制限をある程度は受け入れないと「保護されるべきもの」という抑圧の手から逃れるすべはないと思う。

抑圧から無条件に開放すべき、というのは他者の抑圧も全て開放することを認めることであり、単なる無秩序を望んでいるに過ぎない。ある種の抑圧は社会的に強力な文脈が付与されてこそ開放できるものであり、そのために費やされた先人の努力には敬意を払いたい。