おおらかさに必要な鈍感力が他者を傷つけるループから抜け出すにはまどかが神になるしかない
新年早々の社会的混乱(鉄道が家事で止まった程度で死者も出ないのに大問題になるのがさすが日本は平和です)を受けていろんな人がコメントされていますね。
NHKでお正月にやってた番組の昔の日本の映像とか見ると「え、これインドの鉄道じゃないの?」ってくらいの状況になっていて、そういえばそもそも新幹線の乗車率なんてだいぶ緩和したよねとも思い、今の日本はおおらかさを失ったのではと思う人も結構いるようです。
でもね、おおらかさってすげー乱暴に言うと例えば「子供の一人や二人死んだっていいよまた作ればいいし」的な価値観の延長線上にあるものなのかもしれませんよ。鈍感力だよね。
おおらかさに依拠した社会ってのは割合と問題があるんじゃないかと思うんですよ。その中で真に社会の改善を図る人間は一人握りだろうし、どんなに努力をしても他人のおおらかさ故に上手く行かず、あの手この手でループを繰り返した挙句絶望するような。
- 作者: ダニエル・L・エヴェレット,屋代通子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2012/03/23
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ピダハンの文化に触れた言語学者にしてキリスト教者である筆者の変容を読んだ時にも思ったけれども、おおらかさというのはある種の諦めと停滞の象徴なのではないかな。
戦後から今に至るまでの時間をかけて、日本は社会としての価値観を育て、抑圧からの開放と個人の多様性を尊重する国に変容してきたわけです。おおらかさっていうのはどうもそのことに向き合っていないようにも思えます。十分に自己を表現することができた人が年をとってある種のおおらかさ(良くない例で言うと石原慎太郎の諸発言)を見せることはよくありますよね。
他人の発言や行動によって傷つく人がいる、という主張に「まあまあ穏便に(と言って誤魔化す)」というのは個対個であればともかく、社会に対する提言としては害でしかないと思うんですよね。別に怒号を持って議論する必要もないですけど。
おおらかさというのは往々にして自分(の価値観)に関係がない部分で発揮されがちで、おおらか(と評価されている)な人がその実自分の価値観の核の部分については絶対に譲らないというのはよくあることです。