差別は「悪い人間」だけが行うものではない

のっけからあれだが、差別を無くすことは不可能だと思っている。差別は特別な憎しみを持ったものだけが発動可能な必殺技ではなく、社会が形成されるときの排除の論理の自然な発露にすぎないからだ。無論、社会の構成員というのは善良な人間が大半を占めている。

文明が発展していく過程で差別は忌むべきものとされて来ている。これは近代になってからの概念ではないものの、そもそも「数える仲間に入れない」ということで実際に行われている差別に対する倫理的な解決を行っていた。江戸時代の身分制度そのものは差別を必ずしも意味しないが、非人という人別帳に載らない「人でありながら人でない」存在を規定するのは差別である。しかし、現代における「犬を人として扱わないことを差別とは言わない」というレベルで考えてしまえば差別ではない。

日本において日本人以外を排除するということを「え?何が悪いの?」というレベルで考えている人が潜在的にたくさんいることは自明だ。言わない人も「建前上それを言ってはいけない」と思っているだけのことが多いだろう。日本人は郷に入れば郷に従えということが多い。日本は極めて閉鎖的な環境を持った国で、日本人はそのことに慣れきっている。日本の「安全」は「他者」の排除と地理的要因で確保されている。日本語を喋れない奴はお断りなんである。

排除の論理は容易に正当化される。例えば、XX大学OB会はXX大学のOBしか入れない。しかし、仮にその地域で商売をやるためにはXX大学のOB会に入っていないと難しい、となるとXX大学OB会が所属するより大きい社会組織にとっては差別が発生しているという問題になる。しかし、大抵の場合、「俺達の縄張りで商売するな」で終了である。社会を形成するというのは利益を分配する枠を作るという側面もあるので、よそ者を排除するモチベーションは非常に強い。ここで行われるヘイトを単純な悪意と見なすことは難しいだろう。社会から見たよそ者は血に飢えた獣であり、害獣を排除することを躊躇しない。これは正義である、と。

社会が形成されればそこに常識も形成され、思考の自由は制限される。果てには人間のあるべき姿も制限される。社会にとって不適格な個は可能な限り無力化されるような仕組みも形成される。

社会というものはだいたいそういうものであり、排除の論理を社会の基盤に導入「しない」でいることは、それを倫理として強制しない限りは難しい。しかし、内に抱える差別を攻撃に使わないという選択はいつだって可能だ。

社会が「外敵」の進入を防衛したり、他の社会を攻撃したりするときに強い差別の言葉が発せられる。「Japanese Only」はわかりやすい発露である。かの集団においてそれは正義であることが自明な言葉なのであろう。しかし、かの集団はそれを外向きに発露することを抑止することに失敗した。現代社会においては内在する差別を元に他者を攻撃することは重罪であり、それが社会全体の意思とみなされる方法で行われた場合、いずれ滅びるほか方法はない。