理解をしてもらえるからといって受容してもらえるとは限らない。

仮に友人がスカトロ趣味を持っていたとしてもそれを理由に差別することはないけれども、目の前でうんこ食い始めたら全力でぶん殴るよね、という話です。
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うーんと、僕よくわかんなかったんだけど、これHIV啓発の看板ってどういうことなの?HIVはホモが感染する病気ですよってアピールしたいとか?

まあそれはさておき、クレームの話。これってわりとあからさまな同性愛表現なわけじゃないですか。違ったらゴメンだけどノンケの僕にはそう見えます。で、その事自体が悪いというわけじゃないのだけどもね、そこにクレームが来ること自体をゲイへの差別って言ってしまうのは危ないんじゃないかなあって。愉快不愉快は差別とは別に存在するわけで、不愉快であっても許容しなければならない線をどこに引くのかという問題は簡単なものではないんじゃないかなあ。

なんでもかんでもウェブで見える時代だから本当のターゲットじゃないところにまで表現が届くことが多くなってきて、それによって問題が起こることも増えてきたって思うんですよね。ゾーニングが意味をなさなくなったというか。これは結構深刻な問題で、そうやって常に可視化されているということは、(頭で)理解するということがそのままそれを受容しなければならないということにつながってしまう。必要なのは理解であり、理解というのはそれを理由に差別しないということです。でも、理解したからといって必ずしも価値観そのものを自分のものとして受容しなければならないことにはならない。むしろ他者の価値観を違う価値観であるときちんと区分けすることのほうが必要なんですよね。少なくとも、理性は「キモチワルイ」と言ってはならない。でも、生理は「キモチワルイ」と発信してしまうことはたくさんあるんですよね。
もちろん、理解が広がることで受容も容易になるだろうし、生理的な感覚といっても生得的じゃないものの方が大きいだろうから徐々にそういった感覚がなくなってくるだろうけれども、まだまだそうなっていない現状において一足飛びに受容を求めすぎてしまうとかえって拒絶されることのほうが多いんじゃないかとも思います。