日本の右傾化と排斥の行方

社会というのは小さくなればなるほど排斥的行為を正当化できる性格を持っている。極端な話、自由とかプライバシーというのが究極のそれなんだけど、このレベルにおいても「正しくあらねばならない」と圧力がかかることはままある。生き方を制限することへの憎悪と同じ口が他者の内心を批判するということがあるのを僕は不思議に思うけれども、いずれにしても最後の砦は個である。

縛られることを忌避して核家族ばかりと化した社会がそれが故に自由を奪われる羽目になっているような現状において、結局のところ何かについて自由であることは何かについて不自由であることを受け入れたことによって得られる結果でしか無いことを実感している人は多いだろう。

ともあれ、自由の真実に気がついてしまった人々が耐えられなくなりつつあることを利用しているのが今の政権である、という見方をすることは出来なく無いだろう。ここでの右傾化とはすなわち自由を売り渡すことによって利益を得ようとする思想でしか無い。他者に対して排斥的な行為ができる人というのは、自分がその立場に置かれることを想像しない、あるいはしたくない人であろう。全員がそうとは言わないが、この人たちは言うなれば、覚悟を決めてしまった人なのである。そういった現実の前に原則は無力である。

自分の自由にすら重要性を考えない人にとって他者の自由など、ましてや属性の違う人間の自由など存在しないに等しい思想だろう。

小さいコミュニティーにおける排斥を避け得ないのであれば、なおさら大きなコミュニティー、最終的には国家がそれを斥ける力を持たなければならない。しかし、積極的に排斥的たろうとしている国家に一体何を期待すればよいのだろうか。

唯一先進国たるプライドだけがそれを正常に引き戻せると思っていたのだけれども、積極的に後進国足らんとする司法行政を目の前にしてはその望みも少ない。

プライドでは飯が食えない。プライドだけで生きていくことは原則で否定されつつある。では我々は何を拠り所にして先進国のプライドを保てばよいのか。こういった考え方にも右傾化が忍び込む。自らを犠牲にするという「美しい」価値観。元来のそれは自由のもとで自ら選び取ったものだけが美しい。全てを十把一絡げに批判することがかえって自由のもとでなされたそれと強制によってなされたそれをわざと混同させ、間違った価値観を植え付ける手がかりにされてしまっているのではないかとも思う。せめてプライドだけでも自分のものにしたい人間を取り込むことは容易である。

我々はそういった人々を排斥してはならない。