「判断過程を問題にする」のと「判断の正しさを問題にする」のはニワトリが先か卵が先か問題ではないか

責任をだれがどうとるかって話が先にないと結局どうにもならないような気がする。
つまり、結果責任は誰かが負わなければならない。であるならば、個としての行動はそれを最小化するようになるだろう。判断過程を見せないというのは判断の正しくなさの度合いを隠しているに過ぎない場合が多いので、結局のところ、判断の過程を問題にするというのは判断の正しさについての断罪に繋がるだけではある。

そうであるならば、検討可能な様々な仮説を差別なく吟味したかどうか、利用可能な様々な証拠を差別なく採用したかどうか、判断過程の検証こそが重要なのだと言えるでしょう。だから、判断過程のプロセスを明晰に言葉にすること、その際に利用した証拠をできる限り隠さずに明らかにすること、これが先に述べた責任の一部として含まれるでしょう。

「判断の正しさ」について - モジモジ君のブログ。みたいな。

比較的この考え方が適用しやすいであろう医療事故関連の訴訟において非専門家(医療に対する裁判官のような)による非合理な結論が導かれるような事例を考えると、不適切な判断というのは材料が不十分であることだけにより起きるのではなく、素養なり資質なり(これは長時間かけて身に着けた専門知識や経験も含む)に依拠する部分が大きいのではないか。
判断過程の隠ぺいを許してはならないという点については同意できるが、それこそが問題なのではなく、依然として「結論における間違い」を問題にすることは重要である。