二郎はラーメンか

ヘルプに行ったのに助ける相手のチームの何人かは帰っているという理不尽と、その為に早く出てきた現場で当初の想定以上の要求をされ始めた理不尽で傷つきながら、やけ食いをする。
大盛りの野菜を見て思う。果たして二郎はラーメンか。無論、生粋のジロリアンは言うであろう。二郎はラーメンではない、と。しかしだ。二郎もまたれっきとしたラーメンであることは看板に「ラーメン二郎」と書いてある事実からして否定のしようが無い。すなわち、二郎はラーメンである。QED
しかしながらだ。ラーメンとはなんであろうか。ラーメンとは。中華麺を中華の技法で取ったスープで食す食べ物ではもはやない。ラーメンとは何か。しょうゆラーメンだ。塩ラーメンだ。味噌ラーメンだ。それぞれの、自分の中でラーメンと言う概念を代表するものをあげるかもしれない。では、ラーメンとは二郎か。否。ラーメンを代表させるには、二郎はあまりにもラーメンからかけ離れている。ラーメンでありながら、逆説的にラーメンであることを否定される。それが二郎か。
桜台二郎のごときは、既に麺にしてラーメンの域を踏み越え、その形はきしめんと言っても過言ではなく、その口の中に広がる香りはうどんそのものである。しかし、二郎をラーメンと言い張ることはできる。このことは、ラーメンの多様性に対するあまりにも深い懐を示しているのであろう。そもそも、蕎麦やうどんやその他の麺類において、そのカテゴライズに与える最も大きな要素は原材料であり、形である。その点、ラーメンとはまさにフリーフォーマットのオープンシステムと言える。食物界のオープンアーキテクチャであるわけだ。FSF(フリーソフト麺財団)や、GNU(ガンコ・ノット・ユニフォーム)や、BSD(ブクロ・シンジュク・デベロップメント)やらが乱立している世界である。恐るべしラーメン界。
そして、最異端の食物である、二郎をもそのアーキテクチャの中に包含すると言うその大きさの前では、二郎もラーメンに甘んじてカテゴライズされるしかないのだ。二郎がラーメンでないという認識は、ラーメンの幅広さを知らないジロリアンの傲慢である。と同時に、ラーメンの枠を飛び出ようとする二郎の精神でもある。ラーメンの看板を降ろせば、二郎はいつでもラーメンから二郎になれるだろうし、一方で、どんなに二郎がラーメンを逸脱しようとしても二郎はラーメンなのである。
しかしなぜ、二郎の量はこのように深遠を感じさせるのだろうか。閉店間際の店内で、居残りで給食を食べるかのような、その空気を避けるように、黙々と、すばやく食し、そそくさとそこを立ち去るのであった。