べき論から離れると、ウェブの混沌が見える

最近べき論を説くとどうもループ構造から抜けられない気がしてきたので、現実的な線の話をしたいなと思いつつ、べき論から一歩引くと、色々なものが見えてくる。僕は世の中って妥協で出来上がっていると思ったんだけど、その線は常に揺れ動いていて、何か強い力の存在は、人を引き付けて、あるときは利用され、あるときは排除される。
ウェブなんかは新しい世界だから、色々なものが生まれては消えていって、その中のいくつかは残っていく。そういったもののいくつかは、今までの世の中の概念を覆すような、そんなものだったりして。
ただ、今までの世の中、ってのは我々の生活の基盤だから、建前上はその基盤を揺るがすようなことをしないのがルール。でも、それを利用する側は、そんなのお構い無しに、どんどんルールを破っていく。きっとそんな中からまた別の何かが生まれるのだろう。ただ、それらはあまりに混沌としすぎていて、それぞれが、それぞれの意義を奪うような行為を行ったりしていて、本来、一つ一つが現実に働きかけていくべきところが、食い潰しあって、そうこうしているうちに、今までの世の中って奴に侵食されるわけだ。あるいは、蟲毒のように生き残ったものが強い力をもって現実を殺すかもしれない。
いろんな人の利害が絡み合って、それがあまり政治的な意図を持たない利用者の暴走によって、来るべき将来が潰される、ってのは結構良くあることだと思う。P2Pなんてのはファイル交換以外の分野でも使われる一般的な概念だけど、P2Pの概念自体が悪であるかのように見えてしまっている。もっとも、ファイル交換以外のP2PP2Pとして大声で叫ばなくて人の目にはそういった風には見えないだけかもしれないけど。はてブだってTumblrだってなんだって、悪いことをする奴がいればそれにレッテルを貼る奴がいる。ある臨界点を突破したときに、今までの世の中のアプローチによって、世界が崩壊するかも知れない。ディズニーは許可を取ってのフェアユースには寛容だけど、無断転載には厳しいって話があるよね。そんなところも。
僕らが今直面しているのは、そういう局面で、現に、ウイルスの作成だって、ダウンロードだって、著作権の拡大だって、そういった現実世界からのアプローチの表面化であるし、一つの臨界を突破したっていうことの表出だ。
これらの混沌を、現実的な形に収めていけばよいのか、それともなるようになることを黙って見守っていれば良いのか。現実からのアプローチへの抵抗は、しかし、現在のところ常に現実側の半ば捏造的な不戦勝に終わっている。では、ウェブ側に規範を打ち立てるべきなのか。いや、現実の侵食は、もはやそういったアプローチを許容しないところまで来ているかも知れない。
アナーキーなアプローチは、その裏づけとなる力がなければ、きっとどこかで一蹴されて終わるのだろう。一方で、妥協的アプローチで折り合いをつけている部分もある。そういったところは、ある種の力をこれからも持ち続けるかもしれない。誰か、気に食わないことを理由に潰しに掛かるものがいなければ。
今の規範が正しい、といい続けることは、もしかしたら新しい何かの登場を押さえつける行為かもしれない。ただ、破壊的なアプローチはそれが理想のためであっても必ずギャップやタイムラグを伴うし、そのことにより死滅する何かも多いだろう。ましてや、確信ではなく戯れがそのトリガーを引くようなことがあれば、その結果は悲惨なものになるだろう。
仮に混沌が勝利を収めたとしても、その後に必要なのは秩序であるから、べき論を組み立てておくこと自体は必要なことなんだろう。それと同時に、この現実をどうするかについて考えることも必要だろう。まだ良く見えてない部分が沢山あるのに、迫り来る足音は、段々高くなってきている。