全人類が同意する絶対的価値観

ってのはないよね、今のところ。それに近いものはあるかもしれないけれど。
だから、哲学的な議論は重要だし、実学的な議論も重要。時には両者が密接に関連したものが出てきて、社会の有り様まで変わっていったりする。
最適じゃないかもしれないけどそこそこ安楽なフェーズに入ってきて、最適の問題でははかれない色々な問題を見る余裕もできて。傍観者として、切実性のないところで言っていることなんて大抵は観念論に過ぎないか、そのうちそうなったらよいね、ということに過ぎないのではある。けれども、決して無視は出来ない。というより、何かしらそういうもので押しとどめないといけないほどの力を手にしてしまっているから。
その何かってのも実際には恣意的に選択されていて、もっともらしい理由がついてるだけなんだけどね、多分。
純論理的にはあり得る展開は、おそらく永久に純論理的でたとえそのことが現実に到来したとしてもそれはその純論理的な見解を受け止めなかったのが原因ではなく誰かの恣意の結果との偶然の一致。思考の過程が同一にはならないだろう。
仕方ないというのと了解したというのも違うだろうし、認識レベルも議論のレベルも、言葉には出てこない真の価値判断も。
今巻き起こっている議論なんて脳内スキャンで言わないことまでほじくり出せば阿鼻叫喚の図になるに違いないと思っているけどみんなは自分の思考の一貫性とその滅私的な価値観に自信があるんだろうか。
僕は有り体に言うと、自分勝手な判断をしがちな自分の思考を必死にねじ伏せつつ価値観を形成してきているし、未だに葛藤しながら形を変えていくんだから自信なんて無いし、思考をスキャンされたらたぶん大変なことになると思うけど(笑)。それだけに、誰かに提示されたものをわかったわからないで済むほど簡単だとは思わない。表面の了解ならいくらでもできるし、後は触れずにほおって置くことになるだけ。
パターン化された思考として分類して終わりならそれでいいし、永久に純論理的なもので終わる。その先に行くには、なにをもってすればよいのだろうか。
うーん、この手のは携帯だと難しいな…