運が悪いことの責任を取らなくていいなら人生どんなに楽なことか

某所のエントリとは違う話になりそうなので言及はせず。

仕事なんかは特にそうだけど、運が悪い、というのは物事の起きた原因の一つ(あくまで一つ)を説明することに過ぎなくて、実際に取らされる責任は、起きたことによる結果に対する責任なんだよね。まあ、責任を取る、という言葉を「0:10」の全面的責任と捉えてしまうとそれは理不尽。でも交通事故なんてこっち側に責任がなくても「0:10」で責任無しにはほとんどなり得ないことを考えると世の中バランスを取る方向に動こうとはしている、ということは感じます。
起きてしまったことに対して「運が悪かったね」で済ませることができるならこれほど簡単なことはありませんけど、結果として会社が予定していた収入もなく、ボーナスが減った、というのはしかたのないこと。
景気のいいときに実力のあるエンジニアがほとんど専属みたいな形でフリーになったらサブプライムで財政が破綻して切られた、なんてのも「運が悪い」。多分、自己責任教と運が悪いことの間のつながりはこのへんが一番の接点なのかな。
「逃げるような男に捕まったのが悪い」ってのは「0:10」じゃないよ、ということを言いたいんだと僕は思っちゃうんだけど、「運が悪かったからしかたがない」というのは逆に「0:10」なんだからしょうがないだろ、と言っているようにも聞こえるんだよね。
理不尽にも取りようがない責任を取らされることなんて人生の中では沢山ある。運が悪かったからなんて話で済ますのは当の本人の気持ちの面だけにしないと先に進まない。悪い言い方だけど、運の悪い人の観察者である我々も、運が悪かったね、と言ってしまうことでその後にやらなきゃいけない(かもしれない)当人への対応を免責される気分にならない?
お前の責任が「10:0」だ!という自己責任教にはなりたくないけど、運が悪かったから「0:10」ねというのも大抵の間接的な影響は運が悪いで済まされちゃうからね。そうか、直接間接での捉え方の違いもあるんだけど、それについては時間がないのでここでは触れない。
ある程度生じる責任(例えばサブプライム問題自体には責任がないけど、好景気に甘えて金融以外の仕事でリスクヘッジをしてなかったこと)に対してはある程度コミットしていかないと、同じ失敗を繰り返すことになるからなあ。そういう意味では「運が悪かった」こと自体についての責任は取りようがないけれども、その結果生じたことについて責任を取っていくことは必要だろうし、とりきれない部分を社会が背負えるようになっていることも大切なんだろうね。