「知っている」のレベル感の大切さ

僕は業務プログラマーであれ、新人のときに最低でも1日はCASLでもいいからアセンブラ的なものに触れて、高水準言語のありがたさをかみ締めながら業務に励んで欲しいとおもったりするのです。実地体験は大事。

レジスタが、「記憶領域の一種で、特に高速であり、容量の少ないPCに内蔵されているもの。」であるのは、後半部分が大いに間違っている。もちろん、高速な記憶領域、というのは正しくもあり、間違ってもいる。「高速な」は実装としてそうであることがほとんどというだけで、定義の対象ではないからね。でも実態としては、そうである。
そして、この説明は、レジスタがどういう機能を持っているかということをほとんど説明していない。

Cプログラマが、Javaを学んでクラスのことを「あれか、構造体の親玉みたいなモノか」と評したとき、一抹の不安を覚えることがある。相手が事の本質を一言で言いあわらそうと試みるとき、内容としては不十分だけど、実際には本質をつかんでいてその言葉になるのか、それとも理解がその言葉通りの表面的なものなのか、は簡単には判別できない。

わかっている、と知っているの間には高い壁があると思うけれども、知っている、ということにおいても、言葉を知っている、定義を知っている、その言葉が意味するところを知っている(場合によっては、これが「わかっている」に該当することはあるだろう)、ということの間にも壁がある。