不安は隔離で解消可能か
「ゲームのせい」「マンガのせい」「おとなしくてそんなことをするようにはとても見えなかった」
予防って観点から言うと、誰がどういう性癖をもっているかが全て公開されていたほうがマシなような気がしなくもないけど、人は知ることによって生じる不安よりも、知らないことによって楽観することを選択しがちだよね。生じてしまった不安は知り尽くすことか、対抗する手段を整えることでしか解消し得ないのだから、言ってしまえば、手抜きではあるんだけど、小さな村落ではない現代社会において、他人の全てを知り尽くすことは不可能なわけなので、当たり前。もちろん、潜在的な不安から目を瞑っているだけでしかないけれども、それこそが社会に生きる上で受け入れるべきリスクの一つである。
てことは、逆に言うと、必要以上に自分の情報を公言しないことは、他者に余計な不安を抱かせないための処世術ではあるわけだ。これは何かをカミングアウトしたときにそれが受け入れられるか、ということと紙一重であり、すなわち、差別と紙一重である。人には言えない趣味?それがいえないのは差別されているからではないのか?
不安を隔離するってのは、リスクの高い安心感(決して「安全」ではない)を買うことを選択している、ということではある。
とはいえ、他者が不快に感じるものを撒き散らして社会の一員と自らをもってなすのもずいぶん原則論的で傲慢な振る舞いではあるわけだから、なんらかの形で自重すべきかとは思う。先に述べたとおり、そこを突き詰めていってしまうと差別に突き当たってしまう気がするけれども。
ある表現を受容する人が社会における害である、という観点でその表現の規制を肯定するのは単にくさいものへ蓋をしたいという欲求に過ぎない。表現そのものに対しての、それは自重すべき、という文句であれば、それは社会の要求としては的外れではない。表現者は大いに抗議すべきだし、落としどころを探って最終的にどこかが規制されることはあってもよい。現に(ポルノに限らず)全ての表現が現在無条件に自由を認められているわけではない。ただ、それが行われるまでは(倫理的にはともかく)その表現は違法なものではないし、表現を受容する人は受容することそのものをもって犯罪者呼ばわりされることは未来永劫あってはならないとは思う。社会的に公言しづらくはなるだろうけどね。
結局のところ、「安心」ってあえて見ない、見せないことで成り立っている部分が大半であるし、安全ってのはまったく違う手段で(ある程度確率論的に)担保されている別のもの。真の安心を志向した未来の社会は権力の都合で決められたある一定の思想・嗜好以外を持っていないか、定期的な脳スキャンが義務付けられて、規定に反したら洗脳教育を施される、というものかもしれないけれども、そういう未来よりは不安を抱えながらも未知の他者の考え方を(それが実際の犯罪に直接繋がらない限りは)受容する社会に生きたい。