スマホは若者との世代間格差を変えるか

さっきのエントリに関連して自己言及的に。
以前こう書いた。

あえて世代論として、すごく雑感的に記すと、僕が携帯で我慢が出来ないのは、そのI/Fの劣悪さとスピード、そして何より単位時間(というより面積か)当たりの情報量なのであるが、携帯で満足している人にとってそこは重要ではないようだ。つか、僕らにとって、携帯は手段である。彼らにとって携帯は目的である。それだけのことだろう。

ケータイ世代の視野の狭さ - novtan別館

今でも僕らの世代にとってのゲーム・アニメと同様にコミュニケーションツール(話のネタ)として目的化したケータイという存在価値を失ってはいないとは思っている。でも、それだけではなくなってきているのも確かだ。
逆から考えてみる。今までPCを使っていた層が、カジュアルな手段としてスマホを+αで選択する。このことにより、若者世代のゾーンへ近づいているという状況が生まれている。うーん、それだとケータイでも同じような話ではあるな。やっぱり、若者がスマホを手にすることにより一つ大きな道が開けたと考えるべきか。あたかもPC途上国にタブレットPCが普及するかのような状況が日本のケータイ世代とスマホで起きていると考える。
重要なのは、大きい、ということ。

つまり、あえて視野の狭さを選択し、コミュニケーションという目的に特化しているのが携帯世代であり、携帯にとっての読みやすさは情報量の少なさである。小説からマンガに娯楽が移行したとき、マンガが秘める情報量は小説のそれとは質が違うものの、単純に「字が減った」では表わせない多数の別の情報を含んでいた。果たして、携帯上にそれはあるか。携帯上でのコミュニケーションにおけるメタメッセージは未だ発展途上であるとも感じる。我々の世代が携帯をバカにしている間にそれは理解不能なまでに進化するかもしれない。

ケータイ世代の視野の狭さ - novtan別館

バイスの進化は、こういった独自のメタ情報をなくしていくよね。ポケベルが携帯になった。そのことが当初はポケベル世代の隠語を知らないとわからないやり取りを生んだけれども、もはやそのような言葉を使う世代は若者ではなくなってきている。1世代前のデバイスの文化が次世代の隠語に繋がるっていうことの繰り返しかもしれないけど、もう枯れたI/FであるPCとモバイルデバイスがほとんど融合ともいえる格差の解消をしつつある今では、そういう文化もひっくるめて変わっていくのかもしれない。ようは、単に「死語」と「新語」が生まれては入れ替わっていくだけ。

当然のことながらケータイ小説は絶滅することだろう。ケータイ文化ってのは日本のガラパゴス的なデバイスの進化が生んだ時代の象徴でしかなかったのかもしれない。実際にはそれはデバイスの責任じゃなくて、サービス(平たく言うとi-mode)の責任ではある。

さて、スマホ時代で重要なキーワードはやっぱり「オープン」であることだろう。でも、若者は大人に対しては秘密を持ちたがるものだよね。そこに大きな壁があって、大人の文化とは融合できない部分がどうしても出てくるし、そこに犯罪の種がある。世代間格差は経済的・社会的な差からも生まれるけど、そこに線を引きたい気持ちからも生まれる。大人に対して秘密を持てるデバイスを経験しちゃった若者たちは、そのデバイスがどう変わろうがいろんな手段を駆使してクローズな環境を作っていくだろうし、そこに犯罪が入り込まなければそれはきっとある意味で健全なことなんだろう。だから、埋らない格差はあっていいんだと思うんだよね。