書き手として無責任を標榜するのはDQN宣言だ

ラベルとしてはわかりやすくて良いと思いますがね。

これはParsleyの感覚なので異論がある方も多いのではないかと推察するのだけれど、「責任」は誰かから強要されるものではなく、自覚するものなのではないかと考える。

書き手の責任について考察してみる | Parsleyの「添え物は添え物らしく」

僕はこの言葉に賛成だな。極端な話、「無視を決め込む態度を取る」というのですら、その責任から発生している行動だといえる。
「責任を取る」という言葉はとてもむずかしい。例えば、「責任をとって辞任する」と「責任をとって続ける」というのは同じシチュエーションで両立しうる態度だ。だとしたら責任ってのは一体何なのか。これは結果や状況から自然に導き出されるものではなく、責任を感じる当人が自覚的に次に何をするかを決定し、そのことを世間に伝えることだ、というふうに理解している。もちろん、法に触れる行為をした場合に、法的責任を取るのか、法的責任をとらず逃亡するのか、も含めて。そこには常に責任は存在するし、自覚的であるべきだし、自己決定的であるべき。
自由と責任は対照的な存在であって、責任を持つことなしの自由なんてありえない。およそ人の好意において自己の責任を問われないのは、そこに自由がない場合のみである。まあそこも突き詰めて考えるとどこまでって枠はあるけどね。

なので、自由をアイデンティティとして標榜している人が責任を自覚しない、というのは360度どこから見ても現代人として成立し得ない。事象の原因が行為にある時、その行為の責任が問われないで済むのは封建制度とかそういうレベルの話だよ。だから、無責任を標榜するというのは有り体に言えばDQNである。
その責任をどう果たすかの内容は自己決定すればよいし、その決定が自己の立場(影響力とかね)とその行為の内容に対してアンバランスであれば責められる。責任について深刻に考えすぎる必要はないけれども、ないと考えるのは完全に誤っているし、無責任という態度がその決定内容であっても実際には責任が自動的に放棄されることはありえない。それってもう「法的責任を問われないなら何をやってもいい」って態度で、行列には割りこむは、お一人様一回限りのセール品を何周もするはとか立ち読みはご遠慮しないとかそういうたぐいの行為を賞賛するようなものだ。我ながら随分小者的な例だな…

責任を気にしない、というのはそういう小市民的な後ろ指さされても気にしないで生きてく僕DQN、という宣言なんだと思うんだよね。それはそれで一つの生き方だし、実のところそんなに害があることには(表面的には)ならなかったりするし、DQNだということがわかった以上関わらないのが得策なんだろうと思ったりもするんだけど、こうやって多分に独善的なエントリーを世に出すのが責任を取れないような行為ではないよなーと思いながらポチッとするわけです。