感情をネタに物事を否定するのは正しいか

【追記3あり】「県庁食堂は1Bq、子供の給食は10Bq。あべこべです(怒」から始まる科学と感情と政治の話 - Togetter
コメントやブコメは案の定、のいほいさんフルボッコである。なにを今更感が個人的にはあるけど。
ただ、指摘として多かった「生活保護のときは感情的に非難する人を非難してたのに今度は」というダブスタ指摘については、若干アンフェアかな、と思わなくもないんだよね。
というのも、生保(と略すと仕事柄どうしても生命保険に見えるんだが)の話は、利益やら特権やらについての嫉妬方面の感情が喚起されているのに対して、放射能の件はこんなことも知らないバカ呼ばわりによる上から目線でプライドを傷つけられた!という類の感情を喚起するという違いがあって、この違いって結構重大なんじゃないかって思うから。後者の方が人としては重い。日頃理性を持ってことをなそうと思っている(実際には大抵の場合感情が先走っていることが多い)人ほどそれを人格否定と捉えるだろう。
実際には生保の話も対して変わりゃしない。嫉妬を批判する方がプライドを弄ぶより高尚だなんてこともない。嫉妬の指摘なんていうのはあくまでバックグラウンドの違いでしかなく、結局のところ「お前はバカだ」と言っているのであれば、それは相手にとっては等しく嘲笑である。ただ、ダブスタではなく、その動機の部分に明確な線が引かれている可能性はある。もちろん、本人にとって態度が一貫しているから客観的にもそうであるかというとそんなわけはないけど。この言は擁護ではない。過ちをした時にその本質でないところの批判でその過ちから逃れようとするのは誠実な態度とは言えない。ダブスタ批判は少なくともあの場では蛇足なだけ。
さて、感情的になることについてもそういう差異があるって前提で僕らはどのように「感情だけで物事を考えてはなりません」という前提を持つべきか。
上にあげたどちらの場合も、感情の問題を第一位として持ち出すのは「基本的に人は理性的ではない」という前提に立っていると僕は考えている。若干左翼的(というよりリベラルから)な立場から考えると、それはおかしな前提であるか、人類が乗り越えなければいけない壁のどちらかではある。ただ、ある種の左翼的な思想からすると不思議なことだけど往々にして、その壁の向こう側の愚者たちは切り捨てられ、理性的な人間しか理想的な社会の構成員ではないとみなされることが多いように思える。でも、科学的な思考の有無でそれを判定されることについては頑なに拒む印象がある。ダブスタに見えるのはこの点で、ある価値観を理解出来ないのはゴミクズであると言いながら、真の価値観とはこれであると規定しその他の価値観を全否定しているようにみえるからだと思う。それは理性ではなく信念なのでは?
僕は高尚な人格でもないし、人が理性的である確信など抱いていないし、頭の良し悪しと理性的であることは必ずしも正比例しないことも知っているから、時として上から目線と言われる態度を取ることは自覚している。それが誤った態度だともあまり思っていないけど。
ともあれ、放射脳と言って揶揄するような態度って、相手を感情的呼ばわりしている割に自分は感情的な問題で物事を行っているのではないか、という批判は受けるべきだと思うし、勘違いによる怒りを嘲笑を持って迎えてはならないという点においてはのいほいさんは正しい。その他はともかく。
でも、僕は嘲笑を持って迎えてしまう自分をそんなには抑制出来ない。ネット論客なんて少なからずそう言うマインドを持ってる人がほとんどでしょ。ここでの嘲笑は「なんでこんなものがわからないんだ!」という人間の軽率さや教育の効力のなさやアホなリーダーたちやすべてを台無しにする無意味なプライドやらに対する怒りや諦念がないまぜになって渦巻いて行く感情の表出でしかないんだ。
だから、物事の原動力は感情であるのは間違いないと思う。理性的な指摘であってもその動機は「それは正さなければいけない間違いだ」という判断の元にあり、その行為に踏み切らせたのが感情ではないとは言えないだろう。
あとは、理性との戦いである。科学と非科学の戦いの際にしばしば感情的なやりとりがなされるのは本来的には非効率で慎むべきなんだけど、人を突き動かす根源的な部分の確認と言う意味は持っている。理性的に話すからと言って感情を無視する必要もなければ否定することも実はないのだ。ただ、「感情に配慮しろ」というのは大抵の場合単なる無条件の譲歩を迫る言葉でしかなくて(なにしろ理性だけで話してもそう言われるし、こちら側の感情をぶつけると価値観の相違や「それは感情の問題だ」とかいうブーメランなんだかポルナレフなんだかわからない言葉が返ってくる事がほとんどだ)、意味を見出せない。同様に、嘲笑は相手の理性に対する挑発であるものの、単なる罵倒でもある。大抵話題の本丸でない感情を刺激して終わり。
結局、理性的である、ということは理想であり、目指すべきところだけど現実ではない。そのギャップに自覚的であり、苦しんでるけどついでちゃうようなものだ。人間なんてその程度のものだと思うし、自分はそうではないなんていいつつそれがにじみ出てくるような人は時として醜悪に見える。
ただ、少なくとも公には自分を律することができている人はいる。自分もそうでありたいとは思うが、なかなかうまくはいかないものだ。