正直を求められることへの恐怖について

昨日のエントリからちょっと派生的に。
僕がちょっとゾッとしたのは実はこのくだり。

ぼくはどんな立場にある人であれ、基本的には「嘘を付かない=自分の意見を正直に語る」ことが重要だと考えます。「臭いものに蓋」「空気を読め」みたいなメッセージは、非道徳的です。

古市発言への批判に見る、「積極的に嘘を付け」と語る「道徳的」な人たち : まだ東京で消耗してるの?

これね。前段と後段は実は全くつながりがないことだと思っているんだけど、まず前段ね。よく、「世の中に恥じることをしていなければ常に正直にものを言える」というニュアンスで内心の吐露をおすすめするような言葉が投げかけられることがありますよね。セクシャルマイノリティや、政治思想の問題についてなど色んな所で抑圧があって、本当はカミングアウトしたいのに社会的に問題が生じるためできない、という人もたくさんいます。そういう世の中については価値観を変えていかなければならないことはたくさんありますよね。じゃあ、そこで「なんでも正直に話すべきだ」と考えるべきか。そうなったらどうなるか。ちょっと想像してみます。自分の感じたことを素直に言うのが美徳なのであれば、「デブ」「ブス」「ハゲ」等外見に対する侮蔑的発言も正直に言うべき?だってそう思っちゃったんだからしかたがないよね?感じたことをそのままいうことは場合によっては許容されますけれども大抵の場合は社会性の欠如と見做されます。なぜか。相手の気持を斟酌しない=コミュニケーションを取る意志がない=社会性がない、という図式があるからですね。
これは程度問題でしかないわけですけれども、適用範囲を拡大していくと「空気読め」になっていく、というのは直感的にわかるんじゃないかと思います。
そういう意味でも、社会においては「場」というのは非常に大事です。テレビのトーク番組という「場」、講演会という「場」、プライベートで居酒屋談笑中という「場」、それぞれで許容される「正直さ」というのはあるわけだし、それは必ずしも発言が抑圧されているわけではないんですよね。
誰しも、ふと邪悪な思いを抱くことはあります。思ってしまったことを常に正直に語ることが求められるのは恐ろしい。逆に言うと、そういうことを恥じることなく言える人が恐ろしい。在特会とか、実に正直な方々ですよね。彼らは臭いものに蓋をすることなく、厳しく追求します。蓋を開けてみたら臭くなかったなんてことはお構いなしに、蓋をしてあったんだから臭いに決まっているという印象を正直に展開するわけですよ。

別にね、反抗がカッコイイ、って思うことはいいんですよ。でも、それを正直に言うことなんて全然重要じゃなくて、そこにある社会の問題を分析してよりよい世の中につなげていくような行動が重要なのではないでしょうか。