真の効率化とは程遠いからこそ、社会というものが存在する

僕は科学大好き、論理大好きですが、全てを冷徹な論理と科学的な判断のみによって決定すべき、とは思っていません。というかかけらも思ってないくらい。人間が最後に頼るべきなのは科学ではなく倫理だし、その倫理を実現可能な世の中を作るために科学や論理がある、と言っても過言ではないのです。

例えば、弱者切り捨てについて考えてみます。リソースの余裕が無い状態においてしばしば社会は弱者の切り捨てを要求します。それを「仕方ない」とするかどうかは科学や論理ではなく倫理の領域であり、科学や論理は判断材料を提示するだけに過ぎません。しかし、悪意を持ってそれを援用すると、優生主義のような理屈が誕生してくることが有ります。確かに障害者を抹殺することによる障害者のいない社会は効率的かもしれません。それが是とされた時代もあるでしょう。しかし、現代の人間の倫理観としてはそれは許される考え方ではありません。ここでのポイントは、要求の出元が非論理的な感情からなのか、あるいは手段を突き詰めたときの論理的な帰結なのかということです。どちらにせよ、感情の暴走は論理が抑えこみ、論理の暴走は倫理が抑えこむ必要はあります。

「復興は不要」発言にしても、本音というか、実際に効率がいいのはたしかにそのとおりでしょう。でも、だからそうするべき、と考えるかどうかは別の話です。医療費が足りないなら生命維持装置片っ端から止めてしまえってくらいの話です。とは言え、非効率なものにリソースを注ぎ込みすぎるとそれは緩慢な自殺と同じ結果になるかもしれません。

社会がこの発言を正当化するためには、人々の感情を満足させ、倫理面を磨き上げるしかないと思うんですよね。それをせず、一足飛びに不要と言い放つということは論理の暴走であり、当然非難されてしかるべきではないかと思うわけですね。例え内容が正しかったとしても。

元来、こういった問題を調整し、できるだけベストな形に持っていくのが政治の仕事であるわけです。官僚だから政治をしているわけではないというのであれば、かえって実現を妨げるような発言を世の中に発信すべきではないし、きちんとした政治家に働きかけていくのがお仕事なんですよね。