無断リンクを引用・転載を拡大解釈して考えてみる

実際の法律・判例・思想によらず、最初の定義の部分から考え直してみるという話。現実と乖離している部分についてはご容赦願います。

前置き

Webの成り立ちは参考文献らくらく到達マシーンだったとすると、まず引用ありきであり、参考文献の参照としてのリンクであったと言えます。この時点でWebに文書を上げることの目的はある程度明確であり、また参照されるためにあったわけですから、リンクは暗黙の許諾状態にあります。リンクは自由にされるべきだという共通認識を持った人が使っている。引用先のポインタがリンクであるということですね。
ところが、Webが便利だと言うことが知れ渡ると本来の用途以外でも使う人が増えてきます。インターネットが軍事あるいは学術の世界から解き放たれて双方向コミュニケーションメディアとして開放された時点で暗黙の了解は崩れ去ります。この時点でリンクは引用先を示す必然性がありません。リンクは引用のポインタという属性を失いリンクを設置するページとの関係性を失っていることが大いにあります。

リンクと引用

ここでリンクは引用とセットになるべきだと考えてみます。すなわち、記事が引用の要件を満たさない場合、そのリンクは著作権を侵害していることになります。引用の要件は「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内」であることですから、目的のないリンクの羅列は引用とは見做されないし、主従関係も必要です。公表されているかという点についてはWebに公開した時点で公表に当たると考えてよいと思います。

リンクと転載

ではこのリンクは何に当たるか。引用には無断引用という言葉は当てはまりません。引用といえるのならば要件を満たしているわけで、無断も何も最初から認められているものになります。として、ここでは転載という行為が適当と考えて見ます。すると、無断リンクというのはすなわち無断転載にあたることになり、暗黙の了解で成立していることになります。もちろん、許諾を得ればよいのですが、そうでない場合、無断転載として削除を求められる可能性があります。つまり、「無断リンク禁止」が成立する可能性があるということです。

ないとも言い切れない未来

そもそも「無断リンクなんて言葉はないよ」原理主義の拠って立つ基盤はWebの成り立ちそのものにあります。作成者側のコンテンツに存在するもので、たんなるタグ付きのURLに過ぎず、クリックするとそこに移動するのはブラウザの機能に過ぎないというのがリンクです。ただし、その成り立ちと仕掛けそのものが暗黙の了解の上で構成されたものと考えることはできますし、その場合、その基盤は「暗黙の了解をしていると思われる当初の目的」としては使用していない人々(つまり今普通にWebを使用しているほとんどの人々)には適用できないかも知れません。もしかしたら解釈のしようによってはリンクという行為そのものについて現在の認識と大幅に異なる結論が出てしまうかも知れません。このエントリで考えたことはたぶんに妄想で、解釈としては無理がありすぎるとは思いますが、重箱の隅をつついて集めると意外と我々が思っているのと違った解釈が出来る余地が残っているかも知れません。